フロンティア東部の戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 07:27 UTC 版)
「ウィリアム・ダマー」の記事における「フロンティア東部の戦争」の解説
シュートが出て行ったときに議会と論争になっていたことの1つには、総督の特権であるはずの民兵士官の任命に関することがあった。議会は東部地区すなわちメイン地区の民兵隊指揮官シャドラッチ・ウォルトン大佐の免官を要求した。ダマーはこの問題について議会との議論を続けたが、最終的に折れて、ウォルトンをトマス・ウェストブルックと交代させた。ウェストブルックは1723年2月に、ノリッジウォックに対する2回目の襲撃を率いたが、冬季であり、村は放棄されていた。 フロンティア東部の戦争は、東部アベナキ族が行ったのと同じような襲撃があり、マサチューセッツとニューハンプシャー各植民地の民兵隊による反撃があった。1724年8月に3回目の襲撃でノリッジウォックの村が破壊された後、この戦争は下火になった。この襲撃では影響力を持っていたフランス・イエズス会の宣教師セバスチャン・ラルが殺されていた。ダマーはこの襲撃の後で攻撃的な姿勢を採り、フランスが戦争を唆しているといって糾弾し、その中立を要求した。 1725年初期にボストンで、ペノブスコット族指導者ウィネムエットとソーグアラムとの和平交渉が始まった。ダマーが交渉を指導し、強硬路線を採った。原則として競合のある領土で開拓を止めることを拒否したが、ペノブスコット族がローマ・カトリック教会の聖職者を保持することは認めた。ウィネムエットにはグレイ・ロックやその他アベナキ族の指導者を和平交渉の卓に連れてくるよう圧力を掛けた。この交渉で1725年7月末にはペノブスコット族のみとの予備的な和平となった。ウィネムエットはその後、他の部族に平和を象徴するワンパムのベルトを送り、ワバナキ連邦の広い範囲の中で和平を進めた。フランス人聖職者が書いた条約を訳して見ると、そこに述べられていたことと交渉したこととの間には違いが生じており、ソーグアラムは1726年1月に文書の条約を拒否した。1726年8月にもたれた和平会議では、ペノブスコット族が言語の違いについて論じようとしたが、それでも条約への署名を説得された。ペノブスコット族はその留保条項があったものの、連邦の中に和平を浸透させ、1727年3月にはグレイ・ロックのバンドを除いてすべての部族が条約に合意したと報告した。最終的な和平会議は1727年7月にカスコ湾で開催され、正式に敵対関係を終わらせた。同席者にはダマーの他、ニューハンプシャーの総督代行ジョン・ウェントワース、ノバスコシアの軍指揮官ポール・マスクリーン、またワバナキ連邦の多くの代表がいた。 ダマーが交渉した条約はマサチューセッツと東部部族の間の外交で必要不可欠のものになった。ただし文語と口語の間には多少の食い違いもあった。その後の50年間で結ばれた大きな条約はすべて、その条件を多少修正して表示するものになった。
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