ナポレオンの絶頂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/01 15:45 UTC 版)
「フランス第一帝政」の記事における「ナポレオンの絶頂」の解説
1805年、ナポレオンはウルム戦役にて、イギリスをにらんでブローニュに集結していたフランス陸軍を対墺露戦に投入すべくライン川方面へ進軍させ、ウルムのオーストリア軍を降伏させた。その後フランス軍はすぐさまウィーンを陥落させると、更にアウステルリッツへ進軍し、オーストリア・ロシア連合軍と衝突した。これがアウステルリッツの戦い(三帝会戦)である。結果、神聖ローマ皇帝のフランツ2世はナポレオンに降伏した。更に翌年、ナポレオンは神聖ローマ帝国を解体し、西南ドイツ諸邦の連合体で、親仏、親ナポレオンのライン同盟を成立させた。「ドイツ皇帝」たる要件を喪失したフランツ2世は、神聖ローマ皇帝の位から退いて「オーストリア皇帝」フランツ1世となった。 プロイセンの国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、フランスの覇権が中部ドイツへ及ぶに至って、ついにフランスへ宣戦した。ロシア皇帝のアレクサンドル1世もこれを支持し、1806年にはフランスはこの局面で第2ラウンドになる対プロイセン・ロシア戦に突入した。ベルリンを大きく包囲する形でプロイセン軍と対峙したフランス軍は、イエナ・アウエルシュタットの戦いでプロイセン軍を撃破し、ベルリンに入城した。更にフランス軍はポーランド・東プロイセンに侵入した。ポーランド分割により祖国を喪失していたワルシャワに準備政権を建てさせた上で、1807年、アイラウの戦い、フリートラントの戦いで、ロシア軍を撃破し、ついにアレクサンドル1世を屈服させた。ナポレオンはアレクサンドルとティルジット条約を調印し、既にフランス軍の勢力下にあったポーランドをワルシャワ公国として分立、フランスの保護国とし、更にプロイセン、オーストリア領を大幅に削って、これらの国の勢力を削ぐことに成功した。
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