ナポレオンの参謀長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/05 00:18 UTC 版)
「ルイ=アレクサンドル・ベルティエ」の記事における「ナポレオンの参謀長」の解説
1796年、イタリア方面軍に派遣され、ナポレオン・ボナパルトの参謀長となった。彼は正確かつ迅速に軍務をこなした。また、指揮官の命令を深く理解し、それをより良い形で各部隊に伝達し、指導する能力に長けていた。ナポレオンは彼を理想的な参謀長として高く評価した。 イタリア遠征に従事し、ロディの戦いなどで功績を上げた。1797年にカンポ・フォルミオ条約が締結されると、総裁政府に条約を承認させるためにパリに派遣された。1798年、イタリアに戻ってローマ共和国の建国を指導し、続いてエジプト遠征に従事した。1799年、ナポレオンとともにフランスに帰国。同年11月9日のブリュメールのクーデタに関与し、陸軍大臣となった。1800年、ナポレオンは再びイタリアに遠征、6月14日、マレンゴの戦いで勝利した。この戦いにおいては予備軍の指揮を任されたが、実際にはナポレオンの参謀長として立ち働いた。その後、和平条約締結の責任者となった。 ナポレオンが皇帝に即位すると直ちに帝国元帥に列せられた。その後の諸戦争にも参加し、1806年にヴァランジャン公爵、ヌーシャテル大公爵に叙せられ、1807年には帝国顕官副国民軍総司令官(フランス語版)、元老院議員に任じられた。半島戦争および対オーストリア戦争にも従事し、ヴァグラム大公爵に叙せられた。1808年にはバイエルン王マクシミリアン1世の姪マリー・エリザベート・ド・バヴィエール(1784年 - 1849年)と結婚し、3人の子供をもうけた。
※この「ナポレオンの参謀長」の解説は、「ルイ=アレクサンドル・ベルティエ」の解説の一部です。
「ナポレオンの参謀長」を含む「ルイ=アレクサンドル・ベルティエ」の記事については、「ルイ=アレクサンドル・ベルティエ」の概要を参照ください。
- ナポレオンの参謀長のページへのリンク