ブリュメール18日のクーデターとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ブリュメール18日のクーデターの意味・解説 

ブリュメール18日のクーデター

(ブリュメールのクーデタ から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/26 13:50 UTC 版)

ブリュメール18日のクーデター
場所 フランス共和国 サン=クルー
標的 ポール・バラスルイ=ジェローム・ゴイエら総裁政府
日付 1799年11月9日
概要 総裁政府の打倒
攻撃手段 クーデター
犯人 ナポレオン・ボナパルト
対処 統領政府の成立
テンプレートを表示

ブリュメール18日のクーデター(ブリュメール18にちのクーデター、フランス語: 18 Brumaire)は、1799年11月9日共和暦8年ブリュメール(霧月)18日)、ナポレオン・ボナパルトらが総裁政府を打倒した軍事クーデターのこと。総裁政府を打倒したクーデター派は統領政府を樹立、ナポレオンが第1コンスルとなった。

概要

テルミドール9日のクーデターによって、総裁政府の実権を握ったエマニュエル=ジョゼフ・シエイエスは政局を安定させるべく、強力な政府を求め憲法の改正を考えていた。憲法改正を支持する元老会を通過させることはできても、憲法擁護派の多い五百人会を説得するのは無理と思い、エジプト遠征から帰還したばかりのナポレオンを利用した軍事クーデターを画策した。

このことからわかるように、そもそもナポレオンはクーデターを成功させる剣の役割でしかなかった。ナポレオン自身も「シエイエスらが首謀しただけで、私は手先に過ぎず、主役ではなかった。ただ果実だけは頂いた」と述懐している。ナポレオンの役割は当初は受け身であって、首謀者ではなかった。それでもナポレオン自身にはエジプト遠征での敵前逃亡罪の嫌疑がかかっており、クーデターを起こすことは、自明の理であった。

シエイエスらが統領として職務に入るとき、議長を誰とするか諮ったおりに、民衆の人気と武力を背景に持つナポレオンがいち早く買って出たのである。こうして第1コンスルとなってシエイエスらを抑えたナポレオンは5年後の1804年帝政を敷き、ナポレオン1世として皇帝に即位した。

脚注

関連項目




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  ブリュメール18日のクーデターのページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ブリュメール18日のクーデター」の関連用語

ブリュメール18日のクーデターのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ブリュメール18日のクーデターのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのブリュメール18日のクーデター (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS