政争と亡命
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1794年に国民公会の議長となる。ロベスピエール派の恐怖政治に対して当初は傍観的だったが、戦略をめぐって同じ公安委員会のサン=ジュストと対立し、ロベスピエール派全体とも対立するようになった。だがこれによりテルミドールのクーデターではギロチン行きを免れた。 1795年3月に公安委員会を引退し、元老会議員に立候補して当選。10月に総裁政府が発足すると、初代の5総裁の1人に就任した。カルノーは穏健派として王党派との和解を模索していたが、1797年の選挙での王党派の勝利に反発したバラスらがフリュクティドール18日のクーデターを起こすと、カルノーは王党派に通じていたとの嫌疑をかけられニュルンベルクへの亡命を余儀なくされる。 亡命中は数学の研究に没頭し、『無限小算法についての形而上学的考察』(Réflexions sur la metaphysique du calcul infinitésimal)を執筆する。同著は好評を博し各国語に翻訳された。1799年、ブリュメール18日のクーデター後にフランスへ帰国。第一統領となったナポレオン・ボナパルトの知遇を受け、1800年には半年間戦争大臣を務めた。1802年に護民院議員となる。ナポレオンの帝政に対しては共和主義者の立場から反対し続けたが、ナポレオンはカルノーに敬意を表し伯爵に叙した。
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