アダム・フィリップ・ド・キュスティーヌとは? わかりやすく解説

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アダム・フィリップ・ド・キュスティーヌ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/28 06:43 UTC 版)

アダム・フィリップ・ド・キュスティーヌ

キュスティーヌ伯爵アダム・フィリップ(Adam Philippe, Comte de Custine, 1740年2月4日 - 1793年8月28日)は、フランス軍人メスの生まれ。

経歴

アダム・フィリップ・ド・キュスティーヌ(Adam Philippe de Custine)の軍人としての経歴は七年戦争からで、続いて、アメリカ独立戦争でもイギリス軍相手に健闘し、少将に任ぜられた。後にトゥーロン要塞の司令官に任命[1]1789年、キュスティーヌはメス地区の三部会議員に選出されたが、1791年10月、陸軍中将として再び参軍した。部下たちには「général moustache(口髭将軍)」という名前で人気があった。ヴォージュ軍最高司令官として、1792年の9月から10月にかけて、シュパイアーヴォルムスマインツ、そしてフランクフルトを次々と制圧。キュスティーヌ将軍は布告文によって革命の宣伝をし、貴族聖職者に重税を課した。

しかし冬になると、プロイセン軍の反撃に遭い、フランクフルトに後退を余儀なくされた。さらにライン川を引き返して、ランダウ・イン・デア・プファルツまで撤退。マラー派の新聞から国事犯として[2]、キュスティーヌ将軍は反逆罪で訴えられた。ロベスピエールの弁護で、再び北の軍に送られたが、キュスティーヌ将軍は攻撃を仕掛けることなく、逆にオーストリア軍がコンデに押し寄せた時も打つ手がなく、コンデを落としてしまった。キュスティーヌ将軍は弁明のためパリに送られたが、革命裁判所は、共和国の敵と共謀したとして有罪を言い渡し、1793年8月28日、ギロチンで処刑された。

弁護しようとした息子も同じくギロチンにかけられた。その妻も同じ運命をたどるかに思われたが、孫のキュスティーヌ侯爵アストルフともども生き延びた。

参考文献

  1. ^ セレスタン・ギタール著 レイモン・オベール編 河盛好蔵監訳『フランス革命下の一市民の日記』中央公論社、昭和55年2月15日、p.145.
  2. ^ セレスタン・ギタール著 レイモン・オベール編 河盛好蔵監訳『フランス革命下の一市民の日記』中央公論社、昭和55年2月15日、p.145.




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