ライヒスドルフ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 05:49 UTC 版)
「バート・ゾーデン・アム・タウヌス」の記事における「ライヒスドルフ」の解説
1434年に神聖ローマ皇帝ジギスムントは、ゾーデンとズルツバッハおよびゼンフェルトとゴッホスハイム(後者2村はシュヴァインフルト近郊)をライヒスドルフ(帝国直轄の村)とした。この村は、1803年まで自由ライヒスドルフとして隣接する領主の支配を受けずに存続した。1437年、ゾーデンの塩泉が皇帝の文書に記録されている。1486年にゾーデンで最初の製塩所が建設され、1494年に皇帝ジギスムントは鉱泉の湯治場を設けさせた。1547年5月24日、フランクフルトが軍の通行と資金供与を拒んだことから、将軍マクシミリアン・フォン・エグモント伯はゾーデンとズルツバッハを焼き討ちした。その直後、フランクフルト包囲戦に失敗したアルブレヒト・フォン・ブランデンブルク=クルムバッハも両村を焼き払った。 土木専門家によるゾーデン村の調査で、4つの塩泉と1つの温泉が確認された。1605年、ガイス兄弟が塩を納入する許可をフランクフルトから取り付けた。しかし、その実現のためには多くの義務を履行しなければならなかった。なによりもフランクフルト市の塩の需要を満たすことが重要であった。また、塩の売買は市参事会を通してのみ行うことができた。それまで多くの製塩所の建設が試みられていたが、これ以後はフランクフルト市参事会の同意なしには建設できないこととなった。初めはゾーデン住民は平静であったが、しだいに彼らの所有権に対し不満を募らせ、いさかいが起こるようになった。1612年12月、ついに暴動が起きた。住民たちはフランクフルト側の管理者を捕らえた。軍隊も暴動を鎮圧できなかったため、フランクフルトの塩の専売比率を抑え、ゾーデンの製塩所側に自由裁量の余地を残すこととなった。 三十年戦争(1618年 - 1648年)では、ゾーデンも焼き討ちの脅迫や、掠奪の犠牲となった。多くが木造であった何棟もの家屋が焼き払われた。軍人たちはこの村を行軍し、掠奪を行った。 1680年にダーフィト・マーラーペルトが製塩業を始めた。彼は「ジュルツ」に新しい製塩所を造った。1715年に、旧市街のプロテスタント教会の礎石が置かれた。教会はその1年後に祝典を開き、開堂された。1770年に、後にサッサウアー・ホーフとなる最初の旅館が建設された。1792年にフランスの将軍アダム・フィリップ・ド・キュスティーヌがマインツ地方を占領し、ゾーデンや近隣都市を掠奪し、火を付けた。
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