中間法時代
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「著作権法 (フランス)」の記事における「中間法時代」の解説
国王の権威を否定するフランス革命が1789年に勃発し、同年8月4日の憲法制定会議によって、特権許可状の制度も廃止されていくこととなる。1791年1月13日 - 19日法、および1793年7月19日 - 24日法の2本の法律制定により、現代の著作権法の原点となる制度が開始された。当時、本格的な著作権法としてはイギリスで制定された1710年のアン法が存在したが、フランスはこれに次ぐ、世界2番目の著作権制度整備国となった。1791年法は演劇著作物に限った上演権・演奏権を、1793年法は著作物の範囲を広げた上で出版権・複製権を、それぞれ著作者に認めるものであった。しかし1777年の王令によって書籍に永久著作権が認められていたにも関わらず、1791年法と1793年法によって、権利保護期間はそれぞれ著作者の没後5年および10年にそれぞれ短縮されている。この2本の法律は、1957年3月11日法まで160年以上もの間、抜本的改正なしで運用され続けた。 1791年1月13日 - 19日法 フランス語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。1791年1月13日-19日法のフランス語原文 3か条から構成されている。劇場を通じた表現の自由、および劇場著作物の権利保護を保障する内容であった。フランス革命以前は国王からの特許付与なしでは劇場は開設できず、また上演される題目も劇場ごとに指定されていた。これが1791年法により、政府当局に申請すれば誰でも劇場は開設できるようになり、上演の題目も自由に選べるようになった (第1条)。劇場で上演するには、その著作物の著作権者から正式な文章で許諾をとる必要があり、違反した場合は上演の収益すべてが著作権者に損害賠償された (第3条)。著作者の没後5年で劇場著作物はパブリック・ドメイン (公有) に帰し、劇場で無差別に上演できると定められた (第2条)。 当法律の制定された同年、著作者に代わって使用料を徴収する委託管理事務所 (現代の著作権管理団体) が劇作家のフラムリによって開設されたほか、1798年にはフィエット・ロロがフラムリの事務所から独立しており、徴収手数料として2%を課金していた。 1793年7月19日 - 24日法 フランス語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。1793年7月19日-24日法のフランス語原文 (ウィキソース) 7か条から構成されている。著作物の保護対象として、あらゆる文章、作曲、絵画および図案に拡大規定された。また販売による頒布権 (出版権) が「排他的権利」であると謳われ、所有権は一部または全部を譲渡可能とも規定された (第1条)。海賊版を偽造した者は、出版物3000部相当の価値を著作権者に賠償し、また海賊版を流通させた小売業者は、500部相当の賠償が義務付けられた (第4・第5条)。著作者は告訴の前提として、国立図書館あるいは国立図書館版画室に複製2部を納本し、登録する必要があった (第6条)。著作権保護期間は、著作者の没後10年であり、本人および相続人・譲受人が権利を有する (第2・第7条)。 フランス人権宣言との関係 1791年法と1793年法は、1789年に出されたフランス人権宣言を法源としていると言われる。同宣言の第17条では、「不可侵かつ神聖な権利である」として所有権全般を規定していることから、現代のフランス著作権法が人格権として著作者本人の権利を尊重する根拠となっている。しかし著作者本人の人格権を保護する著作権法はしばしば、著作物を社会的に利用することで達成される「表現の自由」と概念や利害が対立することがある。この対立は、1948年に国際連合で採択された世界人権宣言の第2章 第27条との間にも見られ、同条では文芸・科学の成果を社会が共有する権利が謳われている。実際の法整備にあたっては、フランスに限らず世界全般的に、著作権の人格的側面と利用者の表現の自由に優劣をつけるのではなく、バランスをとっているのが実情である。 ナポレオン帝政期 1791年法により自由が保障された劇場であるが、1800年にナポレオン・ボナパルト (ナポレオン1世) と各県知事たちは、劇場の組織見直しと取り締まり強化に転じている。その結果、県知事のもとには著作者から多くの陳情書が届き、また法務大臣が各地の訴追官、判事などに著作物の剽窃や所有権の偽造を取り締まるよう、多数の通達を出している。さらに1806年6月8日法によって、ナポレオンは再び劇場を特権許可状制度に戻し、上演の題目も制限し、検閲制度も復活させている。これによって閉鎖された劇場もあった。ただし、著作者と劇場の自由契約や金額交渉などの自由は保障されており、観客動員も満員であった。1812年10月15日には、遠征中の地から「モスクワの勅令」をナポレオンが発し、コメディ・フランセーズに対する国の管理体制が強化された。 また、ワーテルローの戦いのあった1815年6月は、経済不況のあおりを受け、劇作家の著作権徴収代行手数料も下がり、同年1月の徴収総額の1/3以下に落ち込んでいる。1829年には、劇作家の著作権管理団体である二つの事務所を再編する形で、劇作家作曲家協会 (SACD) が立ち上がっている。これにより、SACDの協会員 (劇作家・作曲家) は劇場に直接台本を送ったり、対立する劇場と直接交渉することが禁じられ、違反者には罰金が科された。 第二帝政に入ると、1852年のルイ・ナポレオン (ナポレオン3世) 勅令により、フランス国立博物館に複製2部を寄託すれば、外国著作物もフランス国内で保護を与えるとした。ここでの外国著作物であるが、たとえその国がフランス著作物を保護していないケースであっても、フランス側では保護対象とした。ルイ・ナポレオンのこの方針は、著作権が自然権であり、国籍や政治的な壁を乗り越えるとのフランス著作権法の哲学に立脚していた。
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中間法時代
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古法と近代法の間にあるのが「中間法」であり、1789年の革命勃発から1804年の民法典制定までとされている。 エマニュエル=ジョゼフ・シエイエスは第三身分の権利について思索して(「第三身分とは何か」 (qu'est-ce que le tiers état) )社会学の用語を発明し、市民権の諸概念を考察し、憲法裁判によって法律の憲法適合性を確認する機関を提案したが、これは共和暦3年憲法(1795年)でも議論がなされた。 テルミドール反動の後、法制改革は停滞したが、それも民法典というジャン=ジャック・レジ・ド・カンバセレスの3つの法案(1793年、1794年、1796年)が登場したことで再び動き始めた。シェイエスやナポレオン・ボナパルトによるブリュメール18日のクーデターがあったために、この法案は1800年から1804年の間に成立してフランス民法典になり、カンバセレスが起草したところがほとんどそのまま法律となった。
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