中間法時代とは? わかりやすく解説

中間法時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/10 07:42 UTC 版)

著作権法 (フランス)」の記事における「中間法時代」の解説

国王の権威否定するフランス革命1789年勃発し同年8月4日憲法制定会議によって、特権許可状の制度廃止されていくこととなる。1791年1月13日 - 19日法、および1793年7月19日 - 24日法の2本の法律制定により、現代著作権法原点となる制度開始された。当時本格的な著作権法としてはイギリス制定され1710年アン法存在したが、フランスはこれに次ぐ、世界2番目の著作権制度整備となった1791年法は演劇著作物限った上演権・演奏権を、1793年法著作物範囲広げた上で出版権複製権を、それぞれ著作者認めるものであった。しかし1777年の王令によって書籍永久著作権認められていたにも関わらず1791年法と1793年法によって、権利保護期間はそれぞれ著作者没後5年および10年それぞれ短縮されている。この2本の法律は、1957年3月11日法まで160年上もの間、抜本的改正なしで運用され続けた1791年1月13日 - 19日フランス語版ウィキソースに本記事関連した原文あります1791年1月13日-19日法のフランス語原文 3か条から構成されている。劇場通じた表現の自由、および劇場著作物権利保護保障する内容であったフランス革命以前国王からの特許付与なしでは劇場開設できず、また上演される題目劇場ごとに指定されていた。これが1791年法により、政府当局申請すれば誰でも劇場開設できるようになり、上演題目自由に選べるようになった (第1条)。劇場上演するには、その著作物著作権者から正式な文章で許諾をとる必要があり、違反した場合上演収益すべてが著作権者損害賠償された (第3条)。著作者没後5年劇場著作物パブリック・ドメイン (公有) に帰し劇場無差別に上演できる定められた (第2条)。 当法律制定され同年著作者に代わって使用料徴収する委託管理事務所 (現代著作権管理団体) が劇作家のフラムリによって開設されたほか、1798年にはフィエット・ロロがフラムリの事務所から独立しており、徴収手数料として2%課金していた。 1793年7月19日 - 24日フランス語版ウィキソースに本記事関連した原文あります1793年7月19日-24日法のフランス語原文 (ウィキソース) 7か条から構成されている。著作物保護対象として、あらゆる文章、作曲絵画および図案拡大規定された。また販売による頒布権 (出版権) が「排他的権利」であると謳われ所有権一部または全部譲渡可能とも規定された (第1条)。海賊版偽造した者は、出版物3000部相当の価値著作権者賠償し、また海賊版流通させた小売業者は、500部相当の賠償義務付けられた (第4・第5条)。著作者告訴前提として、国立図書館あるいは国立図書館版画室に複製2部納本し、登録する必要があった (第6条)。著作権保護期間は、著作者没後10年であり、本人および相続人譲受人権利有する (第2・第7条)。 フランス人権宣言との関係 1791年法と1793年法は、1789年出されフランス人権宣言法源としていると言われる。同宣言第17条では、「不可侵かつ神聖な権利である」として所有権全般規定していることから、現代のフランス著作権法人格権として著作者本人権利尊重する根拠となっている。しかし著作者本人人格権保護する著作権法はしばしば、著作物社会的に利用することで達成される表現の自由」と概念利害対立することがある。この対立は、1948年国際連合採択され世界人権宣言第2章 第27条との間にも見られ、同条では文芸・科学の成果社会共有する権利謳われている。実際法整備にあたっては、フランス限らず世界全般的に、著作権人格的側面利用者表現の自由優劣をつけるのではなくバランスとっているのが実情である。 ナポレオン帝政期 1791年法により自由が保障され劇場であるが、1800年ナポレオン・ボナパルト (ナポレオン1世) と各県知事たちは、劇場組織見直し取り締まり強化転じている。その結果県知事のもとには著作者から多く陳情書届き、また法務大臣各地訴追官、判事などに著作物剽窃所有権偽造取り締まるよう、多数通達出している。さらに1806年6月8日法によって、ナポレオンは再び劇場特権許可制度戻し上演題目制限し検閲制度復活させている。これによって閉鎖され劇場もあった。ただし、著作者劇場自由契約金額交渉などの自由は保障されており、観客動員満員であった1812年10月15日には、遠征中の地から「モスクワ勅令」をナポレオン発しコメディ・フランセーズ対する国の管理体制強化された。 また、ワーテルローの戦いのあった1815年6月は、経済不況のあおりを受け、劇作家著作権徴収代行手数料も下がり、同年1月徴収総額の1/3以下に落ち込んでいる。1829年には、劇作家著作権管理団体である二つ事務所再編する形で、劇作家作曲家協会 (SACD) が立ち上がっている。これにより、SACD協会員 (劇作家作曲家) は劇場直接台本送ったり、対立する劇場直接交渉することが禁じられ違反者には罰金科された。 第二帝政に入ると、1852年ルイ・ナポレオン (ナポレオン3世) 勅令により、フランス国博物館複製2部寄託すれば、外国著作物フランス国内で保護与えるとした。ここでの外国著作物であるが、たとえその国がフランス著作物保護していないケースであってもフランス側では保護対象とした。ルイ・ナポレオンこの方針は、著作権自然権であり、国籍政治的な壁を乗り越えるとのフランス著作権法哲学立脚していた。

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中間法時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/06 15:13 UTC 版)

フランス法」の記事における「中間法時代」の解説

古法近代法の間にあるのが「中間法」であり、1789年革命勃発から1804年民法典制定までとされている。 エマニュエル=ジョゼフ・シエイエス第三身分権利について思索して(「第三身分とは何か」 (qu'est-ce que le tiers état) )社会学の用語を発明し市民権諸概念考察し憲法裁判によって法律憲法適合性確認する機関提案したが、これは共和暦3年憲法1795年)でも議論なされたテルミドール反動の後、法制改革停滞したが、それも民法典というジャン=ジャック・レジ・ド・カンバセレス3つの法案1793年1794年1796年)が登場したことで再び動き始めたシェイエスナポレオン・ボナパルトによるブリュメール18日のクーデターがあったために、この法案1800年から1804年の間に成立してフランス民法典になり、カンバセレス起草したところがほとんどそのまま法律となった

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