制度整備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/26 06:21 UTC 版)
順治5年(1648年)4月、北京に呼び戻された洪承疇は再び内庭に入って摂政王ドルゴンに厚く信任され、各省の改革すべき事柄を提案してはどんどん採用されていった。順治6年(1649年)には少傅兼太子太傅にも任命された。 順治8年(1651年)2月、都察院左都御史を兼任する事にった洪承疇は、同じ都察院の幹部2人と火神廟にこっそり集まって部下である御史の大掛かりな査定を行った。この査定に従ってある者は昇進させ、ある者は地方に出し、ある者は降格または免官としたが、その結果地方に出されることになって憤慨した御史張煊は、火神廟での密談が実は清朝への謀反の相談であると訴え出た。時期的にも前年末にドルゴンが亡くなり、さらに反ドルゴン派によってドルゴンの尊号が全て剥奪されて間もない頃の事であり、洪承疇の弁明もあっさりとは通らず判断は議政王大臣会議に委ねられた。タンタイ(譚泰)の助命工作の甲斐もあって、1651年7月に洪承疇は無罪となった。 順治10年(1653年)1月、内翰林弘文院大学士に異動する。
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