アントワーヌ・フーキエ=タンヴィル
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アントワーヌ・カンタン・フーキエ=タンヴィル(Antoine Quentin Fouquier de Tinville または Fouquier-Tinville, 1746年6月12日 - 1795年5月7日)は、フランス革命期の革命裁判所の検事。カミーユ・デムーランの遠戚。
人物
1746年にエーヌ県の村、ヘロエル(ピカルディ地域圏)=現在のフォレストで裕福な農家の息子として生まれる。革命後、検事の前歴が買われて、1793年「共和制への反対派」の全てを裁くと言う大きな権限が与えられた「革命裁判所」が設置されると、検事の職に就いた。就任後しばらくは、あまり断頭台に送らなかったが、その後は絶大な権限と雄弁によって、呵責の無い弾圧の執行者となり、些細な罪でも死刑を求刑し、市民から非常に恐れられた。王党派、ジロンド派、さらにはジャコバン派内部のエベール派とダントン派(親戚のカミーユ・デムーランも)の死刑を判事として決定。[要検証 ]
あまりにも矢継ぎ早に行われてゆく処刑を、直接関与したタンヴィル自らは「瓦のように首が落ちている」と表現した。ロベスピエールに忠実であったが、テルミドールのクーデターの際は、ロベスピエールらに 有罪を宣告した[要検証 ]。
しかしその直後、革命裁判所は一新され、役人や判事は罷免された。間もなく被害者の遺族に告発されて逮捕される。裁判では、自分の無実を信じて「単に命令に忠実な役人として行動したに過ぎない」と主張したが認められず、1795年5月7日の午前11時半に、パリのグレーヴ広場で、元裁判長マルティアル・ジョゼフ・アルマン・エルマン、ジャン=バティスト・コフィナル、元判事ら16人と共に処刑され、一番最後に首を撥ねられて、首は衆人の前に曝された[1]。遺体は共にエランシ墓地(fr)に埋葬されたが、後の道路拡張で墓地が閉鎖されたことに伴って、遺骨はカタコンブ・ド・パリに移送されている。
脚注
- ^ セレスタン・ギタール著、レイモン・オベール編、河盛好蔵監訳『フランス革命下の一市民の日記』中央公論社、昭和55年2月15日、p.292,
関連項目
- フランス革命関連人物一覧
- フェリックス・ジェルジンスキー - ロシア革命下における秘密警察チェーカー(後のGPU/NKVD/KGB)の初代長官。
- アントワーヌ・フーキエ=タンヴィルのページへのリンク