ジャコバン派の最後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 05:58 UTC 版)
「テルミドール9日のクーデター」の記事における「ジャコバン派の最後」の解説
その後、パリ市のコミューンが蜂起し、そのすきにロベスピエールらはパリ市庁舎に逃げ込む。市庁舎にはロベスピエールを守るべくパリ市国民軍司令官フランソワ・アンリオ率いる200人の国民衛兵と3500人の群集が集結してきたが、独裁者と呼ばれたくないロベスピエールに彼らの先頭に立つ気はなかった。なお、このときアンリオは泥酔状態だったという。この間に、国民公会は、ロベスピエールらコミューンに従うものを法の外に置くことを決定した。深夜になって国民衛兵は引き上げ、国民公会が派遣したポール・バラス率いる軍隊はやすやすと市庁舎を占領した。ル・バはピストル自殺し、ロベスピエールも自殺を図るが失敗して顎に重傷を負い、逮捕された。のちに准将に昇進したシャルル・アンドレ・メルダは自らが顎を撃ち砕いたと主張している。その後、ロベスピエールらはコンシェルジュリー牢獄に連行されて短い最後の夜を過ごした。 翌7月28日、かつてロベスピエールの指示に従って反対派を断頭台に送り込んでいた革命裁判所の検事アントワーヌ・フーキエ=タンヴィルはロベスピエールらに死刑の求刑を求め、裁判長より死刑判決が下された。午後6時、ロベスピエール兄弟、サン・ジュスト、アンリオら22人は革命広場でギロチンにより処刑された。翌日には70人のコミューンのメンバーが処刑され、その翌日には12人が同じ罪状で処刑された。 さらに、ジャン=バティスト・カリエやフーキエ=タンヴィルらジャコバン派の生き残りは、同年から翌年にかけて次々に逮捕され、死刑に処せられた。クーデターに加わっていたビョー=ヴァレンヌやコロー・デルボワも公安委員として恐怖政治を推進した責任を問われ、ギュイヤンヌへ流罪となった。
※この「ジャコバン派の最後」の解説は、「テルミドール9日のクーデター」の解説の一部です。
「ジャコバン派の最後」を含む「テルミドール9日のクーデター」の記事については、「テルミドール9日のクーデター」の概要を参照ください。
- ジャコバン派の最後のページへのリンク