ジャコバイト軍のイングランド侵攻
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「1745年ジャコバイト蜂起」の記事における「ジャコバイト軍のイングランド侵攻」の解説
詳細は「カーライル包囲戦 (1745年11月)(英語版)」、「カーライル包囲戦 (1745年12月)(英語版)」、および「マンチェスター連隊 (ジャコバイト)(英語版)」を参照 マレーはニューカッスル・アポン・タインにいる政府軍の指揮官ジョージ・ウェイド将軍を欺くためにジャコバイト軍を2隊に分けた後、11月8日に抵抗に遭わずにイングランドに侵入した。10日、カーライルに到着した。カーライルは1707年の合同以前はイングランド・スコットランド国境における重要な要塞だったが、1745年時点でその防御工事の状態が悪く、駐留軍も年寄りのベテラン兵士80人だけだった。このような状態にもかかわらず、ジャコバイト軍は攻城砲がなかったため兵糧攻めしかできなかったが、それを行う装備も時間もなかった。しかし、ウェイドの救援軍が雪で遅れると知った駐留軍は15日に降伏した。12月にカンバーランド公爵がカーライルを奪回したとき、彼は降伏の責任を負う者を処刑しようとするほど激怒した。 ジャコバイト軍は小部隊の駐留軍を残して進軍を続け、11月26日にプレストンに、28日にマンチェスターに到着した。マンチェスターでははじめて多数のイングランド人兵士が入隊、ランカシャーのカトリックであるフランシス・タウネリー(英語版)が率いるマンチェスター連隊(英語版)に編成された。タウネリーは元フランス軍士官で、1715年の蜂起に参加した廉で兄リチャードが危うく処刑されるという経歴を持つ者だった。 ジャコバイト軍は12月4日にダービーに入城、諮問会は5日に会議を開いて次の行動を討議した。フランス軍がイングランドに上陸する様子はなく、また大勢の群衆がジャコバイト軍の南進を見ていたにもかかわらず、多くの兵士が入隊したのはマンチェスターだけであり、1715年時点でジャコバイトの重鎮だったプレストンでは3人しか入隊しなかった。プレストンとマンチェスターでも諮問会が開かれており、多くのスコットランド人がすでに遠くまで進んだと考え、ダービーへの進軍に同意したのもチャールズが「サー・ワトキン・ウィリアムズ=ウィンがダービーでジャコバイト軍と落ち合う予定である」「ボーフォート公爵が戦略上の要地であるブリストル港を奪取する準備を進めている」と主張した結果だった。 マレーはすでにできるだけ進んだと主張し、カンバーランド公爵がロンドンから北上して、ウェイドがニューカッスルから南下している状況にあっては優勢の政府軍によってスコットランドから切り離される危険があるとも主張した。チャールズはウィリアムズ=ウィンとボーフォート公爵の状況について尋ねられたが、彼はそこでようやくフランスを離れてからイングランドのジャコバイトの報せを聞いていないと白状した。これはチャールズが先の諮問会で嘘をついたことを意味したため、彼とスコットランド人の関係は修復できないほどに傷つけられた。ロイヤル・スコッツ(英語版)やアイルランド旅団(英語版)のスコットランド人とアイルランド人正規軍が大量の武器、弾薬、資金を輸送してモントローズ(英語版)に上陸したとの報せが届くと、スコットランドで足場を固めるべきとの見方が更に強くなり、諮問会は圧倒的多数で撤退を支持し、翌日には北への撤退を開始した。 現代にいたるまで議論されることではあるものの、同時代の人々はたとえジャコバイト軍がロンドンまでたどり着けたとしても、ハノーヴァー朝の体制が崩壊するとは信じていなかった。ジャコバイト軍の決定はイングランドとフランスの支援の欠如によるものであり、現代の歴史学者の多くがその決定を賢明であるとした。装備の軽いジャコバイト軍の優勢は行軍の素早さだったが、戦う必要がある場合は重兵装の欠如が不利になる。カンバーランド公爵の軍勢に従軍していたリッチモンド公爵は11月30日付の手紙でジャコバイト軍の選択肢を5つ列挙したが、そのうちスコットランドへの撤退がジャコバイトにとって最良で政府軍にとって最悪である。 イギリス政府はダンケルクで侵攻艦隊が準備されているとの報告について憂慮したが、侵攻計画がどこまで真剣なのかは不明である。1745年から1746年にかけての冬、モーリス・ド・サックス元帥はフランス北部に軍を集結させて、フランドルへの攻勢を準備しており、一方ダンケルクは私掠船の基地で常にせわしかった。侵攻の脅威にさらすことはイギリスに消耗させる上で実際に侵攻するよりはるかに投資効率が高く、侵攻の計画は1746年1月に正式に取り消された。 イングランド進軍が与えた最も大きい影響はチャールズと(マレーなど)スコットランド人支持者の間にお互いに深い疑惑を抱くようになったことである。エルホー卿が後に記述したところによると、マレーはスコットランドで戦争を「数年」続けることができると信じており、そうすることでハノーヴァー朝は軍勢を大陸での戦争に振り分けるためにジャコバイトと折り合わなければならなくなるという。 行軍の速いジャコバイト軍は追撃を振り切ることに成功、12月18日にクリフトン・ムーアで小競り合いが行われた(英語版)のみで20日にはスコットランドに戻った。カンバーランド公爵の軍勢は22日にカーライル城外に到着、駐留軍が7日後に降伏したことでジャコバイト軍はイングランドから完全に撤退した。駐留軍の多くがマンチェスター連隊に所属しており、フランシス・タウネリーを含む士官数人が後に処刑された。
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