ジャコバイト軍のイングランド侵攻とは? わかりやすく解説

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ジャコバイト軍のイングランド侵攻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/20 03:28 UTC 版)

1745年ジャコバイト蜂起」の記事における「ジャコバイト軍のイングランド侵攻」の解説

詳細は「カーライル包囲戦 (1745年11月)(英語版)」、「カーライル包囲戦 (1745年12月)(英語版)」、および「マンチェスター連隊 (ジャコバイト)(英語版)」を参照 マレーニューカッスル・アポン・タインにいる政府軍指揮官ジョージ・ウェイド将軍欺くためにジャコバイト軍を2隊に分けた後、11月8日抵抗遭わずイングランド侵入した10日カーライル到着したカーライル1707年合同以前イングランド・スコットランド国境における重要な要塞だったが、1745年時点でその防御工事の状態が悪く駐留軍年寄りベテラン兵80人だけだったこのような状態にもかかわらずジャコバイト軍攻城砲がなかったため兵糧攻めしかできなかったが、それを行う装備時間もなかった。しかし、ウェイド救援軍で遅れると知った駐留軍15日降伏した12月カンバーランド公爵カーライル奪回したとき、彼は降伏責任を負う者を処刑しようとするほど激怒したジャコバイト軍小部隊の駐留軍残して進軍続け11月26日プレストンに、28日マンチェスター到着したマンチェスターでははじめて多数イングランド人兵士入隊ランカシャーカトリックであるフランシス・タウネリー(英語版)が率いマンチェスター連隊英語版)に編成された。タウネリーは元フランス軍士官で、1715年蜂起に参加した廉で兄リチャード危うく処刑されるという経歴を持つ者だった。 ジャコバイト軍12月4日ダービー入城諮問会は5日会議開いて次の行動討議したフランス軍イングランド上陸する様子はなく、また大勢群衆ジャコバイト軍南進見ていたにもかかわらず多く兵士入隊したのはマンチェスターだけであり、1715年時点ジャコバイト重鎮だったプレストンでは3人しか入隊しなかった。プレストンマンチェスターでも諮問会が開かれており、多くスコットランド人がすでに遠くまで進んだ考えダービーへの進軍同意したのもチャールズが「サー・ワトキン・ウィリアムズ=ウィンダービージャコバイト軍落ち合う予定である」「ボーフォート公爵戦略上の要地であるブリストル港を奪取する準備進めている」と主張した結果だった。 マレーはすでにできるだけ進んだ主張しカンバーランド公爵ロンドンから北上してウェイドニューカッスルから南下している状況にあっては優勢政府軍によってスコットランドから切り離される危険があるとも主張したチャールズウィリアムズウィンボーフォート公爵状況について尋ねられたが、彼はそこでようやくフランス離れてからイングランドのジャコバイト報せ聞いていないと白状した。これはチャールズ先の諮問会で嘘をついたことを意味したため、彼とスコットランド人の関係は修復できないほどに傷つけられた。ロイヤル・スコッツ英語版)やアイルランド旅団英語版)のスコットランド人アイルランド人正規軍大量武器弾薬資金輸送してモントローズ英語版)に上陸したとの報せが届くと、スコットランド足場を固めるべきとの見方が更に強くなり、諮問会は圧倒的多数撤退支持し翌日には北へ撤退開始した現代にいたるまで議論されることではあるものの、同時代の人々はたとえジャコバイト軍ロンドンまでたどり着けたとしても、ハノーヴァー朝体制崩壊するとは信じていなかった。ジャコバイト軍決定イングランドとフランス支援の欠如よるものであり、現代の歴史学者多くがその決定賢明であるとした。装備の軽いジャコバイト軍優勢行軍素早さだったが、戦う必要がある場合は重兵装欠如不利になるカンバーランド公爵軍勢従軍していたリッチモンド公爵11月30日の手紙でジャコバイト軍選択肢5つ列挙したが、そのうちスコットランドへ撤退ジャコバイトにとって最良政府軍にとって最悪である。 イギリス政府ダンケルク侵攻艦隊準備されているとの報告について憂慮したが、侵攻計画がどこまで真剣なのかは不明である。1745年から1746年にかけての冬、モーリス・ド・サックス元帥フランス北部に軍を集結させて、フランドルへの攻勢準備しており、一方ダンケルク私掠船基地で常にせわしかった侵攻脅威にさらすことはイギリス消耗させる上で実際に侵攻するよりはるかに投資効率高く侵攻計画1746年1月正式に取り消された。 イングランド進軍与えた最も大き影響チャールズと(マレーなど)スコットランド人支持者の間にお互いに深い疑惑を抱くようになったことである。エルホー卿が後に記述したところによると、マレースコットランド戦争を「数年続けることができると信じており、そうすることでハノーヴァー朝軍勢大陸での戦争振り分けるためにジャコバイト折り合わなければならなくなるという。 行軍速いジャコバイト軍追撃振り切ることに成功12月18日にクリフトン・ムーアで小競り合いが行われた(英語版)のみで20日にはスコットランド戻ったカンバーランド公爵軍勢22日カーライル城外に到着駐留軍7日後に降伏したことでジャコバイト軍イングランドから完全に撤退した駐留軍多くマンチェスター連隊所属しており、フランシス・タウネリーを含む士官数人が後に処刑された。

※この「ジャコバイト軍のイングランド侵攻」の解説は、「1745年ジャコバイト蜂起」の解説の一部です。
「ジャコバイト軍のイングランド侵攻」を含む「1745年ジャコバイト蜂起」の記事については、「1745年ジャコバイト蜂起」の概要を参照ください。

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