ジャコバイト蜂起への関与
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/17 14:02 UTC 版)
「ジェームズ・バリー (第4代バリーモア伯爵)」の記事における「ジャコバイト蜂起への関与」の解説
1740年に軍事専門家としてイングランドのジャコバイトとジェームズ老僭王の議論に加わるようになり、バリーモア伯爵はフランス王が援軍を出した場合にそれに加わるようフランスのフルーリー枢機卿に承諾した。1742年春にイギリス軍がフランドル地方に派遣されることが決まると、バリーモア伯爵はイギリス軍が出発すると、老僭王は「1万のフランス軍をとともにサセックス、ケント、またはエセックスの海岸に上陸して、そのままロンドンまで進軍すべき」とし、第2代アーガイル公爵ジョン・キャンベルにも助言を求めたが、アーガイル公爵はバリーモア伯爵からの手紙を政府に転送し、バリーモア伯爵の計画が公開された。これにより、バリーモア伯爵は挫折してアイルランドに引退せざるをえなかった。 1743年にフルーリー枢機卿が死去すると、フランスはイギリス侵攻計画(英語版)に取り掛かり、バリーモア伯爵は1万2千ポンドの資金援助を約束したが、1744年2月末にイギリス政府がバリーモア伯爵の侵攻計画への関与の証拠を掴んだため逮捕された。バリーモア伯爵は容疑を否認し、3月末にフランスが侵攻計画を諦めるまで軟禁された。以降もフランスに侵攻を要請し続け、1745年にチャールズ若僭王がスコットランドに上陸した後はフランス軍の上陸を待ちわびたが、チャールズ若僭王が11月にバリーモア伯爵宛てに書いた手紙が長男ジェームズ(ジェームズは父と違い、政府を支持した)によってチェシャーの微罪判事に届けられた。チャールズがダービーまで進軍したため、バリーモア伯爵の次男リチャードは伯爵からの手紙をダービーに届けたが、チャールズはその2日前に北へ引き返した。 1745年ジャコバイト蜂起が鎮圧された後、バリーモア伯爵が蜂起に関与した事実は1747年の第11代ラヴァト卿サイモン・フレイザーの裁判で公開されたが、政府はそれ以上の訴追を行わなかった。1748年1月5日に死去、キャッスルライアンズ(英語版)で埋葬された。3人目の妻との間の息子ジェームズが爵位を継承した。第4代バリーモア伯爵の死により、イングランドのジャコバイトは指導者を失い、打ちしおれたままとなった。
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