ジャコバイトの王として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/24 09:05 UTC 版)
「ジェームズ2世 (イングランド王)」の記事における「ジャコバイトの王として」の解説
フランスに逃れたジェームズ2世は捲土重来を図って1689年3月、フランス軍を伴ってアイルランドに上陸した。スコットランドでは親ジェームズ2世のダンディー子爵ジョン・グラハムが反乱を起こして戦死したが、アイルランドではジャコバイトのティアコネル伯リチャード・タルボットとパトリック・サースフィールドらがジェームズ2世に協力、アイルランド議会はウェストミンスターの決定に従わず、ジェームズ2世が王であることを確認し、「信仰の自由に関する法」を成立させた。かくしてジェームズ2世=カトリック勢力とウィリアム3世=プロテスタント勢力の戦い(ウィリアマイト戦争)が始まったが、ボイン川の戦いで敗れたジェームズ2世は敗残の味方たちを置き去りにしてフランスに逃れた。捨てられた側の兵士たちから不満が噴出し「くそったれのジェームズ(Séamus á Chaca、"James the Shit")」というニックネームがつけられた。 アイルランドは1691年までにイングランド軍に平定され、スコットランドの反乱も鎮圧され、名誉革命政権は足場を固めた。大陸で起こった大同盟戦争でイングランド・オランダ同盟軍を率いるウィリアム3世と戦っていたルイ14世もジェームズ2世の支援を行おうとしたが、1692年のバルフルール岬とラ・オーグの海戦でフランス海軍が壊滅、イングランド遠征は失敗に終わった。 戦後、ジェームズ2世はフランスのサン=ジェルマン=アン=レー城に住むことを許され、1696年(ジェームズ63歳)には王位奪還を狙ってウィリアム3世暗殺計画を立てたが失敗に終わった。ルイ14世はジェームズ2世にポーランド王位を用意したが、これを受諾することはイングランド王位を諦めることを意味すると考えたジェームズ2世は辞退し、ルイ14世との関係も冷えていった。以後、ジェームズ2世は禁欲的な告解者として生活し、1701年9月16日に脳出血で死亡した。67歳であった。遺体はサン=ジェルマン=アン=レーに埋葬されている。
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