ジャコバイトの指導者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 06:58 UTC 版)
「ウィリアム・ウィンダム (第3代準男爵)」の記事における「ジャコバイトの指導者」の解説
ジョージ1世の治世が始まると、ボリングブルック子爵はフランスに逃亡して老僭王ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアートの宮廷と合流、ウィンダムはイングランドにおけるジャコバイトの指導者の座についた。ジョージ1世を追い落とす反乱が1715年夏に計画され、ウィンダムは7月に老僭王にメッセージを送り、「1日でも無駄にしない」よう促した。しかし、計画は露見してしまい、ウィンダムの役割が内閣に示された。このときの閣議にはジョージ1世とウィンダムの義父である第6代サマセット公爵も出席しており、サマセット公爵はホイッグ党政府の一員でハノーヴァー朝を強く支持したが、同時にウィンダムを逮捕から守りたかったため、「彼の責任を持つ」ことを提案した。多くの閣僚はサマセット公爵のような身分の高い人物への攻撃を憚って同意しかけたが、北部担当国務大臣のタウンゼンド子爵のみは政府が決心を示すべきと考えて、ウィンダムの逮捕を動議した。閣僚たちは返事を逡巡して、10分間の沈黙が続いた。やがて2、3人が賛成に回り、ジョージ1世は逮捕を勅許した。ジョージ1世は私室に戻るとき、タウンゼンドの手を握って、「あなたは今日、余に大きく貢献した」と述べた。 ジェームズ・スタンホープはジョージ1世からのメッセージを庶民院に届けた。ジョージ1世は庶民院議員6名を「王国への侵攻を支持する陰謀への加担」の疑いで逮捕することへの許可を所望したという。この議員6名とはウィンダム、第4代準男爵ジョン・パーキントン(英語版)、エドワード・ハーヴィ、トマス・フォスター(英語版)、ジョン・アンスティス(英語版)、コーベット・キナストンの6名である。許可は与えられ、ロンドンに滞在していたハーヴィとアンティスは即座に逮捕された。ハーヴィは自身の胸を2、3か所刺したが、致命傷にはならなかった。フォスターは逃亡に成功、1715年ジャコバイト蜂起でジャコバイト軍の将軍を務めた。 逮捕の決定に従い、コールドストリームガーズのジョン・ハスク(英語版)大佐(当時は初代カドガン伯爵ウィリアム・カドガンのエー=ド=カン)がオーカード・ウィンダムの自宅に滞在していたウィンダムの逮捕に向かった。この時の出来事は同時代のコメンテーターのアベル・ボヤー(英語版)が1716年に詳しく記述している。ウィンダムは午前5時に起こされ、ウィンダムの寝室を調べたハスク大佐は彼のベストのポケットから、イングランドに侵攻して老僭王を王位につかせることを計画した陰謀者のリストを見つけた。ハスク大佐には「礼儀を持って接する」との命令が下されていたため、ウィンダムが服を着替えて当時妊娠していた妻に告別の言葉を述べた後、午前7時に大佐の被逮捕者として出発、そのために大型馬車と馬6頭まで用意するという約束を信用した。しかしウィンダムは自室にある、警備されていない3つ目の門から逃走した。窓から飛び出して、外で待っていた馬に飛び乗ったともされる。これによりジョージ1世は1715年9月23日付で「サー・ウィリアム・ウィンダム準男爵の逮捕宣言」という回状を出し、ウィンダムの逮捕に1,000ポンドという莫大な賞金をかけた。 一時は聖職者に扮して逮捕を逃れたウィンダムだったが、もはや望みがないと分かると、ロンドン近くのシオン・ハウス(英語版)で義父のサマセット公爵を訪れた。続いてロンドンに向かい、公爵の息子でウィンダムの義兄、キングズ・ライフガーズ(King's Lifeguards)の大尉だったハートフォード伯爵のもとに出頭、逮捕された。ウィンダムはロンドン塔に投獄され、サマセット公は当局にウィンダムの保釈を求めたが拒否された。その直後、ジョージ1世はサマセット公を主馬頭(英語版)から解任した。 ジョージ1世の治世(1714年 - 1727年)からジョージ2世の治世(1727年 - 1760年)初期まで庶民院の野党であるトーリー党の指導者を務め、首相ロバート・ウォルポールに対し高教会派とトーリー党の原則を守るために戦った。海外逃亡していたボリングブルック子爵とは連絡を取り続けており、1723年以降はウォルポールを失脚させる計画にも加担したが失敗に終わった。
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