ジョージ1世の治世
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「チャールズ・スペンサー (第3代サンダーランド伯)」の記事における「ジョージ1世の治世」の解説
1714年にアンが亡くなり、又従兄のハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒがイギリス王ジョージ1世に即位して、ハーレー・シンジョンらトーリー党が没落してホイッグ党が復帰するとアイルランド総督に任命されたが、健康を理由にアイルランドに向かわなかった。1714年10月1日に枢密顧問官に任命され、1715年8月28日にアイルランド総督から王璽尚書に転じた。 しかし、いずれの官職にも実権はなく、サンダーランドは官職を利用して内閣を分裂させることしかできなかった。彼はトーリー党やホイッグ党不満派を味方につけたが、同時に第2代タウンゼンド子爵チャールズ・タウンゼンドとともに王太子ジョージ(国王ジョージ1世と不和だった)やその側近である第2代アーガイル公爵ジョン・キャンベルも攻撃した。 1716年秋に休養を理由にアーヘンに向かったが、実際の目的はハノーファーに帰国していたジョージ1世に謁見するためだった。そして、サンダーランドはタウンゼンドとロバート・ウォルポールがフランスとの条約締結を遅延させようとし、さらに王太子ジョージとアーガイル公爵と手を組んで陰謀をめぐらしているとジョージ1世に述べ、また自身がジェームズ・スタンホープ(それまでタウンゼンドの盟友だった)を味方につけたとも述べた。サンダーランドからの手紙でこの出来事を知ったタウンゼンドはスタンホープの裏切りを責め、ジョージ1世にも手紙を書いてサンダーランドの告発を否認した。サンダーランドも後に自身の告発に証拠がないことを認めたものの、タウンゼンドがジョージ1世の不在時における王太子の権限を増やすべきと進言したことでジョージ1世から警戒され、結局タウンゼンドは解任、サンダーランドはその後任として1717年4月15日に北部担当国務大臣に任命され、アディソンも政務次官を再任した(第1次スタンホープ=サンダーランド内閣)。1718年3月16日に枢密院議長に就任、その4日後に第一大蔵卿に就任すると北部担当国務大臣の座をスタンホープに譲り、スタンホープと共に政府の中心となった(第2次スタンホープ=サンダーランド内閣)。また、1719年に王立音楽アカデミー社(英語版)に出資した。また、1719年11月21日にガーター勲章を授与された。 第一大蔵卿の在任中にはスタンホープの外交政策を支持、自身は内政に専念した。宗教問題をめぐりスタンホープが審査法の廃止を提案したが、サンダーランドはこれを現実的ではないとしてスタンホープを説得、代わりに教会分裂阻止法(英語版)と便宜的国教徒禁止法を廃止した。それ以外にもスタンホープとともに貴族法案(Peerage Bill、貴族創家の国王大権を制限する法案)を推進した。法案は政敵である王太子ジョージに向けたものであり、タウンゼンドなどユトレヒト条約の強引な可決を経験していたホイッグ党貴族の大半が支持したが、ウォルポールに激しく反対され、結局法案は貴族院で可決されたものの庶民院では第二読会のときに撤回された。1719年11月にも貴族院で再度提出・可決されたが、庶民院では賛成177・反対269で否決された。 そして、ウォルポールとタウンゼンドの野党活動により政権が揺らぐと、1720年に2人を陸軍支払長官(英語版)、枢密院議長としてそれぞれ復帰させた。しかし、同年に生じた南海泡沫事件で議会から責任を追及され、翌1721年にスタンホープが急死して第一大蔵卿を辞任、ウォルポールがその後任となった。辞任後も政界に影響力があったが1722年に急死、ウォルポールはジョージ1世の信任の元長期政権を確立していった。死後に遺体の検視が行われ、毒殺説が排除された。
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