野党活動
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「チャールズ・ワトソン=ウェントワース (第2代ロッキンガム侯)」の記事における「野党活動」の解説
ロッキンガム派の野党活動とウィルクス運動の盛り上がりで1770年1月にはグラフトン公爵内閣の中からも野党に同調する造反閣僚が出て内閣は分裂して総辞職を余儀なくされ、代わってノース卿フレデリック・ノースが新たな首相となった。 ロッキンガム派はノース卿内閣に対しても徹底抗戦の立場を取ったが、1770年から1771年にかけて野党は弱体化した。同じく野党になっていた大ピット派と意見がかみ合わず連携が取れなかったためであった(大ピット派は国王を批判せず、州選出議員の増加を目指したのに対し、ロッキンガム派は国王の影響力に政治腐敗の原因を求めた)。議会外のウィルクス運動も同時期に内部分裂を起こして下火になりはじめた。1771年春には庶民院議場で大ピット派の議員とロッキンガム派の議員の乱闘事件が起こり、両派の確執は決定的となり、野党大団結の目は無くなった。これが結果的にノース卿内閣の長期安定政権樹立につながった。 しかしロッキンガム侯爵派が野党活動を緩めることはなく、ノース卿内閣を王党派という意味で「トーリー党」と呼んで批判し、同政権への協力を一切拒否した。特に1773年にノース卿内閣がアイルランド不在地主に課税しようとした際にはアイルランド大地主ロッキンガム侯爵は激怒し、強力に反対してその計画を阻止した。 1774年の解散総選挙においてバークは彼の選挙区での演説で庶民院議員と地元選挙区の密接さを強調する一方、「庶民院は様々な敵対的利害から派遣されてきた大使の会議ではない」と述べることで、庶民院議員は自分の選挙区だけにとらわれず全国民のために行動すべきと訴えた。以降これはロッキンガム派が政党として固まるうえで重要な行動原理となる。
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野党活動
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「ジョージ2世 (イギリス王)」の記事における「野党活動」の解説
宮殿の出禁を食らい、父からも面会を避けられたことで、ジョージはその後数年間ジョージ1世の政策の反対派に接近した。これにはグレートブリテンにおける宗教寛容とハノーファーによるスウェーデンのドイツ領の奪取などが含まれた。ジョージの新しい住居であるレスター・ハウスはジョージ1世の野党、例えばロバート・ウォルポールや第2代タウンゼンド子爵など1717年に官職を辞任した人々のたまり場となった。 ジョージ1世は1719年5月から11月の間、ハノーファーに滞在した。今度はジョージを王国守護兼総督に任命せず、摂政委員会を成立させた。1720年、ウォルポールは民衆の団結のためだとしてジョージとジョージ1世の和解を促し、2人は受け入れたが、それはあくまでもしぶしぶやったことであった。こうして、ウォルポールとタウンゼンドは政権に復帰した。しかし、ジョージはすぐに和解の内容に幻滅した。ジョージ1世に引き取られたジョージの3人の娘は引き取られたままであり、またジョージ1世の不在時に摂政に就任することも禁じられたままであった。そのため、ジョージはウォルポールが権力を奪回するために彼をうまく騙して和解させたと考えた。その後数年間、ジョージとキャロラインは静かに暮らし、大々的に政治活動をしなかった。2人の間に新しく生まれたウィリアム・オーガスタス、メアリー、ルイーズはレスター・ハウスとジョージの夏宮であるリッチモンド・ロッジで育てられた。。 1721年、ウォルポールは南海泡沫事件による経済危機で政権の頂点まで上り詰めた。この時期、ジョージ1世はトーリー党が1701年王位継承法による王位継承を支持しないことを恐れたため、ウォルポールとホイッグ党が政界を主導した。ホイッグ党の権力の大きさは、その後半世紀もの間トーリー党政権が生まれないほどであった。
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