ジョージ1世との不和
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 17:46 UTC 版)
「ジョージ2世 (イギリス王)」の記事における「ジョージ1世との不和」の解説
1714年9月27日(グレゴリオ暦)、ジョージは父とともにイングランドへ向かうためにハーグを出港、2日後にグリニッジに到着した。翌日、式典が執り行われて2人は正式にロンドン入りした。ジョージはプリンス・オブ・ウェールズの称号を与えられた。キャロラインは10月に娘たちとともにロンドンに着くが、フレデリックはハノーファーに残り、家庭教師に育てられた。ジョージにとってロンドンのような大きい町ははじめてであった(ロンドンは大きさでいえばハノーファーの50倍で、式典の見物人だけで150万と概算された)。ジョージは自身にはイングランド人の血しか流れていないなどイングランド人を称賛する言葉をたびたび言って人気を博した。 1716年から1727年までダブリン大学総長(英語版)を務めた。 1716年7月、ジョージの父はハノーファーへ6か月間帰国したが、ジョージは父の不在の中、「王国守護兼総督」として限定的な権力を持って統治した。彼はイングランド南部のチチェスター、ハヴァント、ポーツマス、ギルフォードに行幸した。またハンプトン・コート宮殿では公開で食事をした。ドルーリー・レーン劇場(英語版)ではジョージの暗殺未遂事件がおこり、暗殺者が取り押さえられる前に1人が射殺されたが、この事件はジョージの人気を高めた。 ジョージの父はジョージの人気に嫉妬したか不信感を持ち、それが結果的には2人の不和に寄与した。1717年、ジョージに2人目の男子ジョージ・ウィリアムが誕生するが、家族の内紛を引き起こす事件となった。ジョージの父は慣例に従い宮内長官(英語版)の初代ニューカッスル公爵を洗礼式での名親に指名したが、ニューカッスル公爵を毛嫌いしたジョージはこぶしを突き出して「お前は悪党だ。本性を暴露してやる!」("You are a rascal; I shall find you out!")といい、ニューカッスル公は勘違いして「お前は悪党だ。戦ってやる!」("You are a rascal; I shall fight you!")という決闘の申し込みと考えたため、ジョージの父は激怒した。ジョージの父の命令によりジョージとキャロラインは軟禁され、2人は後にセント・ジェームズ宮殿を追放された。2人は宮廷を離れたが、2人の子供たちはジョージの父が引き取って養育した。 ジョージとキャロラインは子供たちと会うことを切望した。ジョージの父からの許可なしに宮殿を秘密裏に訪れたことがあったが、キャロラインは卒倒してジョージは「子供のように泣いた」。ジョージの父の怒りも少し和らいで、2人が週に一度訪れることを許し、後にはキャロラインに無条件の許可まで与えた。翌年2月、ジョージ・ウィリアムはジョージが看取る中で亡くなった。
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