ジョージ3世の側近に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 15:35 UTC 版)
「ジョン・ステュアート (第3代ビュート伯)」の記事における「ジョージ3世の側近に」の解説
ビュート伯は国王ジョージ2世の外交を「ハノーファー偏重」と批判していたため、国王から嫌われており、1747年から皇太子フレデリック・ルイス(父王と不仲だった)のレスター・ハウスの食客となり、素人芝居やカード遊びで人気者となった。1750年10月16日にはフレデリック・ルイスの寝室侍従(英語版)に任命された。 1751年にフレデリック皇太子は薨去したが、皇太子妃オーガスタからも信任を受け、その長男で新たな皇太子となったジョージ(後のジョージ3世)の家庭教師に任じられた。この教育の際にビュート伯は初代ボリングブルック子爵ヘンリー・シンジョンの『愛国王』を教材に使ったといわれ、これが後にジョージ3世が「愛国王」思想に凝り固まる原因になったとされる。1756年6月に18歳を迎えて成人した皇太子ジョージは、自分の皇太子宮内官(英語版)にビュート伯を据えようとした。しかし国王ジョージ2世はビュート伯を嫌っていたので、この人事が承認されたのは10月になってからだった。 1760年10月にジョージ3世が即位する。彼はビュート伯の教育の結果、「祖父王は悪しきホイッグ政治家に囚われており、自分が即位したら腐敗した政党政治家を排除して自分が『愛国王』として国をまとめる」という信念に凝り固まっており、イギリスの政党政治・議会政治に混乱をもたらすことになる。しかしジョージ3世即位時、イギリスは初代ニューカッスル公爵トマス・ペラム=ホリス(首相)と大ピット(南部担当国務大臣)の指導の下に七年戦争を遂行中だったので、ジョージ3世としてもすぐさまの政権入れ替えは躊躇し、ビュート伯を国王宮内官として重用して事実上の首相とすることだけで満足した。
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