ジョージ4世の訪問
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タータンは1822年のジョージ4世のエディンバラ訪問によって大きな流行を見せた。国王のスコットランド訪問は、ハノーヴァー朝君主としては初めて、スコットランド国王としても約170年ぶりのことであった。式典を取り仕切ったのはわずか2年前の1820年に設立されたエディンバラ・ケルト協会であった。協会の会長はウォルター・スコットである。スコットは作家として高い名声を得ていただけでなく、1818年にはスコットランドの戴冠用宝器(スコティッシュ・レガーリア(英語版))の捜索も成功に導いていた。スコットらは各人にタータンを着用するよう命じ、またジョージ4世自身もハイランド・ドレスをその身にまとった。国王がタータンを身に着けるという情報が事前に出回ると、これがタータン・ブームを引き起こした。タータンとは無縁であったローランド人もこぞってタータンを求め、ある織物業者にはそれまでの10倍もの注文が殺到した。このときジョージ4世が身に着けたタータンがロイヤル・スチュアートである。また、この時に今日まで続くクラン・タータンが定着した。式典ではクランの各員に揃いのタータンを着用させるようにとの通達がクラン・チーフになされたが、自分たちのタータンがどのようなものか分からない者も多かった。織物業者、ウィリアム&サンズはこれをビジネスチャンスととらえ、自社の商品を由緒正しいものとして販売するため、タータンの登録を行っていたハイランド協会からお墨付きを得ていった。各クランはクラン・タータンを求め、織物業者はそれに応じていった。かくしてかつては名前もついていなかったタータンや新しく作られた柄が、クラン・タータンとして認められるようになった。タータンが「創られた伝統」とされる由縁である。 この式典を人気取りの茶番であると揶揄する声もあったが、とにもかくにもタータンは大いに流行した。1831年にはジェイムズ・ローガンが初めてのタータン専門書『スコティッシュ・ゲール』を出版し、織物業者はこれを元にクラン・タータンを作り出していった。クラン・タータンの図版が最初に現れたのは1842年の『スコットランドの衣類 (Vestiarium Scoticum) 』である。出版したのはジョン・カーター・アレンとチャールズ・マニング・アレンという兄弟であった。兄弟は自身たちのことをジョン・ソビエスキ・シュトルベルク・スチュアート、チャールズ・エドワード・スチュアートと名乗り、1945年に最後のジャコバイト反乱を起こした、チャールズ・エドワード・ステュアートの孫であると触れ込んだ。彼らの本はクラン・タータンについて書かれた古い写本を元にしていると主張していたが、その写本が提示されることはなかった。ウォルター・スコットは『スコットランドの衣類』が刊行されたときには亡くなっていたが、生前ある貴族からその真偽について意見を求められている。スコットはそこに掲載されたクラン・タータンが、近年になって作り出されたと考えられるローランドのものまであるのを見て、極めて否定的な見解を示している。『スコットランドの衣類』はそのすべてが捏造というわけではなかったが、非常に疑わしい内容のものであった。しかしながら当時のクラン・チーフや織物業者はこの本に俄然興味を示し、その後も『スコットランドの衣類』を元にしたタータンの書籍が出版された。
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