ジョージ4世治世下の幼女時代
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「ヴィクトリア (イギリス女王)」の記事における「ジョージ4世治世下の幼女時代」の解説
1820年1月23日、ヴィクトリアが生後8か月のとき、父ケント公が薨去した。時期同じくして1月29日には国王ジョージ3世が崩御し、摂政王太子ジョージがジョージ4世としてハノーヴァー朝第4代国王に即位した。 夫が残した莫大な借金を背負わされた母ケント公妃はヴィクトリアを連れて英国を離れることも考えたが、弟レオポルド(亡きシャーロットの夫で1831年にベルギー国王に即位するまで英国に滞在し続けていた)から資金援助を受け、ジョージ4世からそのまま住むことを認められていたケンジントン宮殿に留まることにした。 1820年12月にはクラレンス公が娘エリザベスを儲けたため、ヴィクトリアの王位継承は一時遠のいた。しかし、このエリザベスは1821年春に生後4カ月で薨去したため、再びヴィクトリアの王位継承の可能性が高まった。 ヴィクトリアはケンジントン宮殿で母ケント公妃に大事に育てられた。ヴィクトリアは何歳になっても個室を与えられず、母と同じ寝室で寝起きして母の監視を受けた。母はヴィクトリアがジョージ3世の放蕩息子たちのようにならぬよう宮殿に近づけようとせず、貞潔・道徳を重んじる女性に育てようとした。また母はケント公爵家家令サー・ジョン・コンロイの影響を強く受けており、ヴィクトリアもコンロイの娘ヴィクトワールとの交友をなかば強制された。母とコンロイはヴィクトリアが王位を継いだ後、彼女を操って権力を握る算段であった。 母はドイツ語を母語としていたので、ヴィクトリアも3歳までドイツ語のみを話す生活を送った。幼児期に英語とフランス語の学習を始め、やがて三ヶ国語を自由に話せるようになった。後にはイタリア語とラテン語も少し使えるようになった。ヴィクトリアは5歳まで反抗してアルファベットの勉強をしようとしなかったというが、5歳の頃イギリスと同君連合のハノーファー出身のルイーゼ・レーツェン(ドイツ語版)がガヴァネスに付くと反抗も落ち着いてきて勉強をするようになったという。このレーツェンはヴィクトリアに非常に大きな影響を与えた。 6歳の頃には自らの高貴な身分を自覚していたといい、臣民の友人が身分をわきまえずに自分のおもちゃに触ろうとしたり、自分の名前を呼び捨てにするとたしなめるようになったという。 国王ジョージ4世は相変わらずケント公妃を嫌っていたが、同時にこの頃にはヴィクトリアの王位継承は避けられないと考えるようにもなっていた。1825年にケント公爵家の年金が6000ポンド増額され、1826年にヴィクトリアは7歳にしてガーター勲章を与えられ、以降国王は頻繁に彼女を引見するようになった。国王の釣り船に乗せてもらった際に国王が軍楽隊に何を弾かせるかヴィクトリアに尋ねると彼女は『神よ、国王陛下を守りたまえ』をリクエストしたという。 伯父である国王ジョージ4世 母ケント公妃と5歳の頃のヴィクトリア。 ヴィクトリアのガヴァネスだったルイーゼ・レーツェン。 母ケント公妃に強い影響力を持った家令ジョン・コンロイ。
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