ジョージ2世の治世
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「スペンサー・コンプトン (初代ウィルミントン伯爵)」の記事における「ジョージ2世の治世」の解説
1727年5月にジョージ1世が死去して、王太子ジョージがジョージ2世として即位すると、ジョージ2世はウォルポールに対し、コンプトンから指示を仰ぐよう命じた。しかし、ジョージ2世の枢密院への勅語を起草するよう命じられたコンプトンはウォルポールに助けを求めるという有様であり、キャロライン王妃やフランスのアンドレ=エルキュール・ド・フルーリー枢機卿もウォルポールを支持した。ウォルポールが王室費を80万に増額することを庶民院に認めさせたこともあり、最終的にはジョージ2世はコンプトンを首相とすることを断念してウォルポールを引き続き首相として重用していくことにした。 続く1727年イギリス総選挙の後、コンプトンは1728年1月にグレートブリテン貴族爵位ウィルミントン男爵(英語版)に叙せられた。この叙爵は第一大蔵卿(首相)の官職を辞退したことへの返報とみる意見もあるが、コンプトンは後にウォルポールが政敵になりうる自分を排除するために仕組んだものであると主張した。これによりコンプトンは庶民院を去ったが、一方でジョージ・ドディントン(英語版)など真っ先にウォルポールを見捨ててコンプトンを支持した者もおり、コンプトンは彼らとのつながりを築くこととなった。 1730年2月10日、第3代準男爵サー・ウィリアム・ウィンダム率いる野党が突如フランス王国のダンケルク港が修復された証拠を議会に提出して、政府を追及した。このことが1713年のユトレヒト条約で禁止されていたこともあり、議会は騒然となり、ウォルポールは議会での多数を失う危機に陥ったが、その後釜としてウィルミントンの名前が挙げられたという。 ウォルポールとウィルミントンがこのようにライバル関係であったため、ウィルミントンが1730年5月8日に王璽尚書に就任、その6日後にグレートブリテン貴族爵位ウィルミントン伯爵に叙せられたときはウォルポールの意思ではなくジョージ2世の意思とされた。さらに1730年12月31日にはトレヴァー男爵の後任として枢密院議長に任じられ、ウォルポール辞職までこの地位にあった。1733年3月から4月の消費税法案危機をめぐり、ウィルミントン伯爵が野党に与するとの噂が流れると、ウォルポールはガーター勲章の授与を約束してウィルミントンを引き留め、ウィルミントンは同年8月22日にガーター勲章を受けた(ガーター勲章を受けるにあたってバス勲章を放棄した)。貴族院においてはほとんど発言しなかったという。 1730年8月5日にD.C.L.(英語版)の学位を授与されたほか、1739年に創設された捨子養育院(英語版)では初代総裁の1人を務めた。
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