大学都市としての復興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 16:07 UTC 版)
「ゲッティンゲン」の記事における「大学都市としての復興」の解説
三十年戦争後も、この街の経済的衰退は続いた。毛織物や亜麻布の輸出はほぼ完全に麻痺状態となった。1400年には6,000人だった人口は、1680年頃には3,000人以下にまで減少した。経済的衰退に加え、政治的凋落も起きていた。市参事会や市民生活におけるギルドの優越性は、領主支配権により霧散した。エルンスト・アウグストは事実上の領主主導政治を1690年に実現した。外交面でも事態は変化していた。ゲッティンゲンを含むブラウンシュヴァイク=カレンベルク侯領は、エルンスト・アウグストの下で、1692年に神聖ローマ皇帝レオポルト1世によって選帝侯領とされた。さらに1714年からブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯(ハノーファー選帝侯)はグレートブリテン王国と同君連合国となった。エルンスト=アウグストの息子であるハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒがジョージ1世としてグレートブリテン王位に就いたのであった。 ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公領は、ドイツ中部の領域上の大国の1つとなったが、公領内に大学を有していなかった。彼は領邦内で必要な神学、法学、医学の教育機関として大学を新設することを決めた。選帝侯領政府はこれをゲッティンゲンに建設すると決定した。ゲッティンゲンには、それ以前から寄宿制教育機関のギムナジウムがあり、これが大学の原型になった。 ハノーファー選帝侯ゲオルク2世アウグスト(イギリス王ジョージ2世)の治世下、1734年に、その名にちなんだゲオルク・アウグスト大学が開設された。1737年に記念式典が挙行された。大学新設後の急速な成功は、特にゲルラハ・アドルフ・フォン・ミュンヒハウゼンを迎えた事による。大学は市に新たな隆盛をもたらし、人口増加を促進し、集中的な建設工事によって街の姿は急速に変貌した。 当時のゲッティンゲン新市民の意気込みは、現在もゲーテアレーのグレッツェルハウスに見ることができる。新しい住居、レストラン、宿屋がオープンした。教授や学生に文化活動を提供するため Universitätsreitstall(大学の乗馬小屋)が造られた。その後ゲッティンゲンはヨーロッパ全土や海外でも学問の街としての名声を獲得した。数多くの有名な学者がゲッティンゲンを訪れ、ここで働いた。大学の高い声望は、特に新設された大学図書館の素晴らしい収蔵ポリシーに拠っていた。さらに1751年にゲッティンゲン王立学問協会(後のゲッティンゲン学問アカデミー)が設立され、学問上の新知見に関する情報紙で、たちまち国政的名声を獲得したゲッティンゲン・ゲレールテ・アンツァイゲン(ゲッティンゲンの研究者報告)が刊行された。 七年戦争では1757年から1762年までゲッティンゲンは新たな占領を受けた。フランス軍がゲッティンゲンに駐屯したのだが、大学での学問活動が途絶えることはなかった。戦後、ゲッティンゲンの防塁は撤去され、遊歩道となった。こうして非武装化された大学都市はすべての学問活動を再開し、全盛期を迎えた。
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