フランス革命関連人物一覧
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フランス革命関連人物一覧(フランスかくめいかんれんじんぶついちらん)では、フランス革命に関連する人物を列挙する。政治的立場などを参考にして分類してある。主な活躍については生前の、革命期における政治的なものを中心に記述。
フランス王家
| 名前 | 生没年 | 主な活躍 |
|---|---|---|
| ルイ16世 | 1754年 - 1793年 | 革命期のフランス国王(在位1774年 - 1792年)。 アメリカ独立戦争への参加が、革命勃発の直接のきっかけとなった[1]。財政赤字解決のため改革を志すも頓挫[2]。後に王妃や王弟の影響を受け考えを変える[3]。 |
| プロヴァンス伯爵 | 1755年 - 1824年 | 王弟。後の国王ルイ18世。 ヴァレンヌ事件の一方で亡命に成功し、アルトワ伯と合流[9]。亡命先のヴェローナからフランス国王に即位[10]、1791年憲法への回帰を拒否する宣言を発し、旧体制の復活を表明[11]。ナポレオン没落後は妥協し、革命の成果を基本的に尊重することを約束[12]。彼が国民に授与した1814年憲章では立憲王政、代議制、法の下の平等などが認められ、王政復古したものの革命前の状態には戻らなかった[13]。 |
| アルトワ伯爵 | 1757年 - 1836年 | 王弟。後の国王シャルル10世。 バスティーユ襲撃事件の後に亡命[14]。この際、兄ルイ16世にも亡命を勧めたが拒否される[15]。反革命を指導[16]、トリノの宮廷を根城として亡命者たちの通信網を作ろうと画策したが諸々の理由により失敗[17]。 |
| マリー・アントワネット | 1755年 - 1793年 | ルイ16世の王妃。 革命勃発以前から、貴族による非集権的な政治体制にすべきという自身の側近の進言によって政治に介入[18]。革命と妥協する意思はなく、政治的決定に関して国王に強い影響を与えた[19]。 |
| エリザベート王女 | 1764年 - 1794年 | 王妹。 ヴァレンヌ事件では国王一家に同行。8月10日事件の後、アルトワ伯とやり取りした文書が発見された[20]。 |
王党派
王族関係者
| 名前 | 生没年 | 主な活躍 |
|---|---|---|
| デュ・バリー夫人 | 1743年 - 1793年 | 娼婦出身のルイ15世の公妾。 ポンパドゥール夫人の死後、ルイ15世の正式な愛妾。ショワズール公爵やマリー・アントワネットから冷遇されるもルイ15世の死まで地位を守る。ヴェルサイユ宮殿における新古典主義様式の育成に貢献[21]。 |
| フェルセン伯爵 | 1755年 - 1810年 | スウェーデンの伯爵。 王妃と親密な関係。アメリカ独立戦争において軍事的功績。革命期では王室を熱心に擁護、政治的に重要な役割。ヴァレンヌ事件に協力し、外国勢力に働きかけ[22]。 |
| ポリニャック伯夫人 | 1749年 - 1793年 | マリー・アントワネットの寵臣 王妃の親友。頻繁に中傷の標的となった[23]。バスティーユ襲撃事件後に亡命[24]。以降も王妃と文通[23]。 |
| ランバル公妃 | 1749年 - 1792年 | マリー・アントワネットの女官長 王妃の親友。テュイルリー宮殿で王妃家政機関総監[25]。 |
| ルブラン夫人 | 1755年 - 1842年 | 王妃の公式画家。 アカデミー会員の画家ルイ・ヴィジェの娘。王室や貴族の顧客を維持。1789年にイタリアへ亡命[26]。 |
立憲君主派
フイヤン派
| 名前 | 生没年 | 主な活躍 |
|---|---|---|
| オノーレ・ミラボー | 1749年 - 1791年 | 貴族でありながら三部会で第3身分議員に属す[27]。 革命前は遊蕩や決闘で有名。封建制諸権利の廃止、教会財産の没収、アッシニア紙幣の発行といった諸改革を主導[28]。親臨会議で国王への反抗を主導していたが、1789年末頃から民衆の暴力を嫌い革命の終結を図る。立憲君主制のもと可能な限り国王の権力を強化する方針で活動[29]。国王と王妃に対し、革命を中断させ君主権力と軍の規律回復のため内戦を勧める[30]。国王との内通が疑われ、宮廷からも議会の大部分からも不信感を抱かれた[28]。 |
| ジルベール・デュ・モティエ・ド・ラファイエット | 1757年 - 1834年 | アメリカ独立戦争にて部隊の指揮をとり活躍[31]。バスティーユ襲撃事件では民兵団を率い[32]、後に国民衛兵司令官に任命[33]。フランス人権宣言の主な部分を起草[34]。1790年代前半の議会を主導し、国民の連携と統合、国民または議会と国王の和解、革命の穏やかな終結を目指す[35]。全国連盟祭ではパリ市民の前で秩序を宣言[36]。シャン・ド・マルスの虐殺にて国民衛兵に発砲を命じ[37]、支持を喪失[38]。 自身の一派と共に、軍事において勝利することで権力を握りジャコバン派に勝るため戦争支持[39]。開戦後、中部方面軍の指揮官として前線に出勤。一方で、軍隊の無規律、行政の無秩序、ジロンド派の陰謀を非難。国王一家救出のため国民衛兵を用いたクーデターを計画するが、彼を嫌った王妃に通報され失敗[40]。8月10日事件後、オーストリアに投降し捕虜となった[41]。七月革命後、内戦と対外戦争を避けるため自由派から再び国民衛兵司令官に任命された[42]。 |
| ジャン・シルヴァン・バイイ | 1736年 - 1793年 | 国民議会初代議長 天文学者でありアカデミー会員、第三身分の議員として全国三部会の議員になる[43]。球戯場の誓いにおいて宣誓の中心となった[44]。バスティーユ襲撃事件後、常設委員会の議長フレッセルが射殺されたためにパリの選挙人団から選出されパリ市長となる[45]。パリの選挙人を代表して国王に三色徽章を贈呈[46]。ヴァレンヌ事件ではパリの秩序を保つため行動[47]。シャン・ド・マルスの虐殺にて戒厳令を出す[48]。虐殺を招いたため同年11月に市長辞任[43]。 |
| エマニュエル・ジョゼフ・シエイエス (恐怖政治期は平原派) |
1748年 - 1843年 | 聖職者[49]。1788年に『特権論』執筆[50]。翌年、『第三身分とは何か』を寄稿[51]。全国三部会では第三身分の議員[52]。表現の自由に反対[53]。「国民議会」の名を提案[54]。 1795年、最初の総裁のひとりに選出[55]。穏和な共和派の「立憲サークル」に参加[56]。 |
三頭派
| 名前 | 生没年 | 主な活躍 |
|---|---|---|
| アントワーヌ・バルナーヴ | 1761年 - 1793年 | 全国三部会では第三身分の議員。ジャコバン・クラブの設立に参加[60]。フイヤン派の三頭[61]。ヴァレンヌ事件で国民議会から派遣され国王一家を連れ帰った議員のひとり[62]。以後、王政擁護に傾き反共和主義的な立場をとる[60]。奴隷制維持を主張する「フランス植民者通信協会」に合流[63]。8月10日事件の後、彼の署名がある手紙がテュイルリー宮殿の鉄戸棚から発見された[60]。 |
| アドリアン・デュポール | 1759年 - 1798年 | パリ高等法院の司法官[64]。フイヤン派の三頭[61]。国王の秘密顧問。8月10日事件の後、イギリスに亡命。テルミドール9日のクーデター後に帰国するも、フリュクティドール18日のクーデターが起きたためスイスに亡命[65]。 |
| アレクサンドル・ド・ラメット | 1760年 - 1829年 | フイヤン派の三頭[61]。ラメット兄弟の末弟。三部会では第二身分の議員だが、第三身分に近い存在でありジャコバン・クラブ設立に参加。ヴァレンヌ事件後は反共和主義的な立場をとり、シャン=ド=マルスの虐殺を支持。開明的な君主制に共感。対オーストリア宣戦に反対していたが、ラファイエット指揮下で戦争に参加。1795年までオーストリアで捕虜となる。その後、兄たちと合流[66]。 |
| シャルル・ド・ラメット | 1757年 - 1832年 | 三部会では第二身分の議員だが、第三身分に近い存在。ヴァレンヌ事件の後、憲法制定国民議会議長。国王廃位に反対。後にジャコバン・クラブと決別し、フイヤン・クラブ結成に参加。ハンブルクに亡命、1900年に帰国[67]。 |
オルレアン派
| 名前 | 生没年 | 主な活躍 |
|---|---|---|
| ルイ・フィリップ2世 | 1747年 - 1793年 | オルレアン公、ブルボン家傍系の貴族。 ルイ16世の従兄弟。王妃に敵意を抱いていたため、宮廷から距離をとる。パリ高等法院で国王の権威に異議を唱え、一時的に領地を剥奪された。貴族代表として三部会に選出され、第三身分(ブルジョワジー)を支持。8月10日事件後、貴族の称号を放棄しパリ・コミューンからフィリップ・エガリテの名を授かる。山岳派支持。国王裁判でジロンド派から陰謀を企てたと非難される。息子がデュムリエ将軍と共にオーストリアに寝返り立場が悪化[68]。 |
| シャルル・デュムーリエ | 1739年 - 1823年 | 革命前に少将。ジロンド派内閣において外相、ごく短期間の間陸相。ブリソと共に対オーストリア宣戦布告を推進。北部方面軍、アルデンヌ方面軍総司令官としてヴァルミーの戦い、ジュマップの戦いで勝利。ベルギーを占領、ブリュッセルを併合[69]。 幕僚やルイ=フィリップらと共に逃亡、オーストリア軍に投降。ジロンド派に近い存在とみられていたため、この裏切りはジロンド派は不利な状況に傾いた[70]。1800年、イギリス軍の顧問に[69]。 |
ヴァンデの反乱における王党派指導者
| 名前 | 生没年 | 主な活躍 |
|---|---|---|
| ジャック・カトリノー | 1759年 - 1793年 | ヴァンデ戦争の最高指揮官[71]。 商人出身 |
| ルイ・ド・エルベ | 1752年 - 1794年 | 旧体制時代からの有名な戦略家 カトリック王党軍第2代総司令官 |
| アンリ・ド・ラ・ロシュジャクラン | 1772年 - 1794年 | 8月10日事件で国王一家を守護 カトリック王党軍第3代総司令官 |
| フランソワ・ド・シャレット | 1763年 - 1796年 | ブリュターニュ地方の小貴族出身。海軍将校。ヴァンデで蜂起した農民から請われ、反乱軍の指導者を務める。マシュクールを奪回、ナント攻略に失敗。ラジョナイの和約を結ぶが、数か月後再び軍を指揮。ルイ18世から国王軍最高司令官に任命される。1796年、共和国軍の捕虜に[72]。 |
| ルイ・ド・レスキュール | 1766年 - 1793年 | カトリック王党軍司令官 ラ・ロシュジャクランの従兄 |
| ベルニエ司祭 | 1762年 - 1806年 | 行政機関・最高評議会代表および従軍司祭長 ナポレオン政権下で、コンコルダートの成立に尽力 |
共和派
ジロンド派
| 名前 | 生没年 | 主な活躍 |
|---|---|---|
| ジャック・ピエール・ブリッソー | 1754年 - 1793年 | 作家として旅行記、政論、官能小説などを執筆[73]。1788年、同志と共に奴隷制の改革・廃止を目指し「黒人友の会」を設立[74]。立法議会においてジャコバン派を率いる[75]。ヨーロッパ諸国が陰謀を企て、軍事介入によってフランスの旧体制を復活させようとしていると考え[76]、対外的な安全が革命の擁護に繋がるとするなど、諸々の理由から開戦を提示[77]。開戦問題をめぐりロベスピエールと対立[78]。実際の戦争・外交政策は妥協や迂回の方針[79]。パリ・コミューンの廃止とジャコバン・クラブの閉鎖を訴えるパンフレットを発表[80]。 |
| ピエール・ヴェルニヨ | 1753年 - 1793年 | 弁護士。1792年7月3日の演説で国王に向けた攻撃演説を行う傍ら、国王と接触し立憲王制の域組みを模索。8月10日事件の後、共和制宣言に積極的に関与。パリ・コミューンおよび革命裁判所設置に反対。公安委員会設置には賛成[81]。 |
| ロラン夫人 | 1754年 - 1793年 | ドフィーヌ広場の彫金師の親方の娘。ジロンド派における黒幕的な存在。ルソー、モンテスキューといった啓蒙思想家の書物に親しむ[82]。彼女が開く会合は真剣な政治談議の機会となり、多くの人を呼び込んだが、それゆえに信用は得られなかった[83]。 |
| ジャン=マリ・ド・ロラン | 1734年 - 1793年 | ロラン夫人の夫。 革命前は製造業総監督官[84]。夫妻で会合を主催[85]。妻の影響を受けて政界に[84]。立法議会期の内務大臣[86]だが、戦争政策を採ろうとした際、国王から他のジロンド派大臣と共に罷免される[87]。8月10日事件の後、再び内務大臣に[88]。テュイルリー宮殿の鉄戸棚から見つかった文書の目録をひとりで作成。山岳派から隠匿の疑いを受け、辞任[89]。 |
| フランソワ・ビュゾー | 1760年 - 1794年 | 三部会における第三身分の議員。ペティヨンらと最左翼に位置。ロラン夫人のサロンに通う[90]。ブリソと共に立法議会における左派のリーダー[91]。パリ・コミューンの取り組みに反対し、ジャコバン・クラブの閉鎖を提案。最高価格令に反対[90]。 |
| マクシマン・イスナール | 1751年 - 1830年 | ジロンド派内の保守派。民衆運動抑圧に効果的として革命裁判所、公安委員会の設置に賛成[92]。ジロンド派追放時の議長。国民公会からエベールの釈放を要求されるも拒否[93]。ジロンド派逮捕を免れ、恐怖政治期には地下に潜伏。1795年2月に国民公会へ復帰。同年5月に南仏に派遣され、ジャコバン派を弾圧。マルセイユのサン=ジャン要塞に囚われていた革命家の虐殺を放置。500人会議員に選出[92]。 |
| シャルル・バルバルー | 1767年 - 1794年 | 弁護士。マルセイユから立法議会に派遣され、同市の主張を代弁。ロランのサロンに通い、ジロンド派の中枢に[94]。国王裁判の際、人民の批准を要求。これによってマルセイユ当局から裁判を要求される[95]。パリの民衆を「秩序破壊分子」と見做した[94]。 |
| ジェローム・ド・ペティヨン | 1756年 - 1794年 | 弁護士。三部会議員[96]。革命前より聖職者の独身主義と長男を贔屓する長子相続制度に対する批判で知られる[97]。憲法制定議会ではロベスピエールと共に最左翼に。立憲王政支持[96]。ヴァレンヌ事件の際、国民議会から派遣された議員のひとり[98]。1791年6月にパリ市長[96]。ラファイエットがクーデターを起こそうとした時は国民衛兵の閲兵式を中止させて阻止した[40]。ブラウンツヴァイクの宣言を受け、パリの48セクションのうち47セクションの名において国王の廃位を要求[99]。 1792年9月に国民公会初代議長。翌年、国王処刑反対を理由に断罪を受ける[96]。 |
| マルグリット=エリー・ガデ | 1755年 - 1794年 | 弁護士。1791年5月にボルドー刑事裁判所長。ジロンド派領袖のひとり。ビュゾーと共に山岳派批判。国王裁判では「人民への上訴」に賛成[100]。マラー逮捕を要求、後にパリ・コミューンを潰しセクション代表者会議をこれに代え、国民公会をブルジュに移すことを提案[101]。 |
| コンドルセ | 1743年 - 1794年 | フィローゾフであり数学者[102]、哲学者、政治家[103]。女性の権利を推進[104]。1974年の改革においてテュルゴーに協力し、立法議会の議員に選出された後は1791年体制における所有権と取引の自由の絶対視に影響を与えた[105]。公教育論を提出[103]。国民公会発足後、憲法委員会を主導[106]。1793年2月、ジロンド派の憲法案を国民公会に提出[107]、1793年憲法の民主主義的・急進的な性格を作る[108]。同志と共に「代表制民主主義」の政治概念を提示[109]。 |
| トマス・ペイン | 1737年 - 1809年 | アメリカ独立戦争直前、『コモン・センス』を著す。 イギリス出身であり、アメリカの政治思想家[110]。1791年3月『人間の権利』を発行、バーグの著書に対し異議申し立てを行こなう[111]。イギリス政府から追放されフランスへ[110]。国民公会議員に選出され、ジロンド派寄り[110]。国王処刑に反対。1792年8月26日の法令でフランスの市民権が与えられたひとり[112]。1793年12月に逮捕、翌年12月まで獄中に。公会復帰後、制限選挙を復活させる1795年憲法案に反対。1802年、アメリカに帰国[110]。 |
ジャコバン派(山岳派・モンターニュ派)
ロベスピエール派(ジャコバン中道派)
| 名前 | 生没年 | 主な活躍 |
|---|---|---|
| マクシミリアン・ロベスピエール | 1758年 - 1794年 | 弁護士[113]。三部会で第三身分の議員に選出[114]。ブリソが示した開戦に反対[115]。エタンプの一揆の後[116]、生存権はすべての権利に優先すると主張[117]。公安委員会メンバーのひとり[118]。ジロンド派に対する蜂起に同調、逮捕された議員を事実上保護[119]。同志と共に非キリスト教化運動を冒涜行為と見做しこれに反対[120]、これを主導したエベール派を批判[121]。東インド会社の汚職事件発覚後[122]、ダントン派とエベール派を批判[123]。非キリスト強化運動の影響を取り除き、共和国の諸原理を確固たるものにするため[124]最高存在の祭典を執り行う[125]。 |
| オーギュスタン・ロベスピエール | 1763年 - 1794年 | マクシミリアンの弟 革命前、兄の選挙運動を強く支援[126]。国民公会の議員に選出。代表派遣議員としてフランス南東部に[127]。トゥーロン攻囲戦にてナポレオンの軍事的才能に目をつける |
| ルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュスト | 1767年 - 1794年 | 国民公会最年少議員 1790年7月の全国連盟際に参加。公安委員会のメンバーとなり、1793年憲法の作成に参加。ロベスピエールの盟友。ジロンド派、ダントン派、エベール派に激しい攻撃[128]。フランス政府は平和の到来まで革命的であるとする「革命政府の宣言」を提案[129]。救貧対策ヴァントーズ法を提示[130]。1793年末から翌年6月にかけてライン方面軍および北部方面軍で規律の立て直し。パリに戻り、孤立していたロベスピエールと他メンバーの間で和解工作に努めるも奏功せず[128]。 |
| ジョルジュ・クートン | 1755年 - 1794年 | 弁護士。1791年、クレルモン=フェランの裁判所長を務める。立法議会、国民公会の議員に選出。公安委員会のメンバー。ロベスピエールの右腕として、エベール派ダントン派の排除[131]。地方で虐殺を行った派遣議員のパリ呼び戻しに伴い、パリ革命裁判所の効率化・敏速化が求められたためプレリアル22日法をひとりで作成[132]。 |
| フィリップ=フランソワ=ジョゼフ・ル・バ | 1762年 - 1794年 | 1792年より国民公会議員。サン=ジュストの親しい友人。国王処刑に賛成。マラー告発に反対[133]。1793年10月後半より、サン=ジュストと共に北部方面軍・ライン方面軍に派遣され規律の立て直しを行う[134][135]。保安委員会のメンバー。ジャコバン・クラブ議長も[133]。 |
| マルク・アントワーヌ・ジュリアン | 1775年 - 1848年 | ジャコバン最年少党員 16歳でジャコバン・クラブに入会。1793年、軍事派遣委員としてピレネーに[136]。ナントのサン=キュロットがカリエに反対・抗議したため、軍の職員でありロベスピエールに信頼されていたことから公安委員会より派遣。現地の事情を調査・報告した[137]。テルミドール9日のクーデター後、パリに戻るも解任され逮捕。獄中でバブーフらと知己に。その後、バブーフも関わったパンテオン・クラブの創設に関与[136]。 |
| フランソワ・アンリオ | 1759年 - 1794年 | パリ市国民衛兵隊 総司令官 革命勃発前はパリの入市関税所職員。1789年7月12日の入市関税所焼き討ちに参加。同年9月から植物園セクションの国民衛兵隊大隊長。8月10日事件に参加[138]。ジロンド派追放の際、司教館委員会より国民衛兵司令官に任命され、蜂起にてセクション住民の指揮を執る[139]。准将、少将と出世。コルドリエ・クラブのメンバーでありエベール派寄り。1794年冬頃のパリの治安維持に貢献。テルミドール9日のクーデターにおいてロベスピエール派を救出しようとするも失敗、逮捕された[138]。 |
| フーキエ・タンヴィル | 1746年 - 1795年 | 革命裁判所検察官 小貴族の出身。従弟デムーランが司法省事務総長だったため、彼の手引きで1792年8月に設置された起訴陪審の部長に。1793年2月、パリ重罪裁判所訴追官。翌3月に革命裁判所の訴追官。テルミドール9日のクーデター後、自身が捕らえられるまでの16カ月間に多くの人々をギロチン送りにした中心人物とされた[140]。 |
ダントン派(ジャコバン寛容派)
| 名前 | 生没年 | 主な活躍 |
|---|---|---|
| ジョルジュ・ダントン | 1759年 - 1794年 | コルドリエ・クラブを設立[141]。8月10日事件の際に住民を煽動[142]。事件の後、司法大臣に[143]。九月虐殺を止められなかった件をジロンド派から非難される[144]。革命裁判所の設置に賛成[145]。デュムリエ将軍の裏切りをきっかけとしてジロンド派との関係悪化。ジロンド派排除後、1793年4月から7月まで公安委員会[141]。密かに諸外国との和平を試みるも進展せず。1793年7月の公安委員会改選の際に落選[146]。東インド会社の汚職事件にてダントン派の名前が挙がる[147]。エベール派の非キリスト強化運動を抑圧。寛容派と非難される[141]。 |
| カミーユ・デムーラン | 1760年 - 1794年 | バスティーユ襲撃事件を煽動[148]。弁護士の経験。ダントンの秘書[149]。ロベスピエールと学生時代からの友人、政治的にはダントンに近いジャーナリスト。ダントン派の機関紙『ヴュ・コルドリエ』紙を発行。恐怖政治全体を非難[150]。言論の自由と「間違える権利」を要求。ロベスピエールとは和解の方向性が示されるも、両者のわだかまりは解決せず[151]。 |
| ルイ=マリ・スタニスラス・フレロン (後にテルミドール派) |
1754年 - 1802年 | 革命前より政治評論家、デムーランの同級生[152]。派遣議員。バラスと共にマルセイユ・トゥーロンで激しい弾圧[153]。弾圧についてロベスピエールの追及を恐れ、テルミドール9日のクーデターに参加[154]。マラーの『人民の友』と激しさを競い、新聞『オルトラール・デュ・プープル』を創行[152]。「テロリスト」への報復を煽動し[155]、バレール、コロー・デルボワらを断罪。クーデター後、ジャコバン・クラブを閉鎖[152]。 |
エベール派(ジャコバン急進派)
| 名前 | 生没年 | 主な活躍 |
|---|---|---|
| ジャック・ルネ・エベール | 1757年 - 1794年 | 新聞『デュシェーヌ親父』を発行[156]。ジャーナリストでありパリ・コミューンの当局者[157]。8月10日事件にはボンヌ=ヌヴェル・セクションを代表して参加[158]。サン=キュロットのリーダー。ジロンド派から逮捕されるも国民公会によって釈放[159]。食料価格高騰を受け、パリ民衆に食糧を要求して国民公会に侵入するよう煽動。これが反革命容疑者法と全般的最高価格法の圧力となった[158]。エベール派として非キリスト強化運動を主導[160]。 東インド会社に関する汚職事件に関与[121]。 |
| ジャン=バティスト・クローツ | 1755年 - 1794年 | 非キリスト教化運動に参加[161]。理性の崇拝を推進 |
| アントワーヌ=フランソワ・モモロ | 1765年 - 1794年 | 書籍印刷販売業。コルドリエ・クラブ会員。シャン=ド=マルスで共和制を求める請願書に署名する集会が開催された際、大きな役割。8月10日事件に関与、パリ県総裁府の一員に。有名な「自由・平等・友愛」スローガンの発案者。エベール派に近く、理性崇拝を推進。農地均分法を支持[162]。ロベスピエールを穏和的すぎると批判[163]。 |
ジャコバン過激派
| 名前 | 生没年 | 主な活躍 |
|---|---|---|
| ジャック・ニコラ・ビョー=ヴァレンヌ | 1756年 - 1819年 | 弁護士[164]。ヴァレンヌ事件を受けて王権批判のパンフレット『無頭政』を出版[165]。国民公会が発足された際、「これ以後、公文書にはフランス共和国元年として日付が記載されること」を決定[166]。エベール派の議員であり、コロー・デルボワと共に公安委員会の委員に[167]。ロベスピエールおよびサン=ジュストを補佐[164]。フリメール14日法の原案を議会に提示[168]。テルミドール9日のクーデターでは反ロベスピエールを援助[164]。後に、バレール、コロー・デルボワと共に公安委員会から外される。これにヴァディエを加えた4人はその後、国民公会から「四人組」と呼ばれ恐怖政治のシンボルのように扱われる[169]。正規の裁判の手続きを省略してギュイアンヌへの流刑が決定[170]。 |
| ジャン=マリー・コロー・デルボワ | 1749年 - 1796年 | 役者。1797年にリヨンで座長。1791年、革命の諸スローガン普及のための懸賞作品『ジェラール親父の暦』でサン=キュロットとして名をあげる[171]。ナンシー事件で刑に処されたスイス兵釈放のため尽力したひとり[172]。8月10日事件に参加、九月虐殺を支持、蜂起コミューン評議員[171]。エベール派の議員であり、ビョー=ヴァレンヌと共に公安委員会の委員に[167]。連邦主義の反乱を受け、リヨンでフーシェと共に過酷な弾圧[173]、これについてロベスピエールから糾弾される。テルミドール9日のクーデターに大きく関与[171]。後に公安委員会から外され、ビョー=ヴァレンヌらと共に恐怖政治のシンボルとして扱われる[169]。正規の裁判の手続きを省略してギュイアンヌへの流刑が決定[170]。 |
ネオ・ジャコバン
| 名前 | 生没年 | 主な活躍 |
|---|---|---|
| フランソワ・ノエル・バブーフ | 1760年 - 1797年 | 「バブーフの陰謀」首謀者 領地明細簿作成師、封建法専門家[174]。1793年初頭、国有化された教会の土地を貧しい人々に分配するため登記簿を偽造したため投獄。平等を達成するため私有財産への批判を展開[175]。サン=キュロットに近い立場であり、テルミドール9日のクーデター後、ロベスピエールやカリエを一括して批判しフレロンやタリアンを支持していたが、やがて後者の態度に疑問を持ち自身の新聞『護民官』にて批判。そのために投獄、釈放後はロベスピエールの社会政策に対し一定の評価[176]。「平民宣言」を発表し、ブルジョワジーとの戦いを宣言。逮捕令が出された後、地下に潜伏。土地の共有と生産物の平等を求める運動をひそかに組織し、蜂起を計画するもメンバーのひとりがカルノーに買収され逮捕に至る[177]。 |
| フィリッポ・ブオナロッティ | 1761年 - 1837年 | 「バブーフの陰謀」における重要メンバーのひとり。この事件を1828年出版の著作によって後世に伝える。私的所有権の廃棄、生産物における分配の平等、前衛党による蜂起計画などは19世紀の社会主義・共産主義の思想に影響を与えた[178]。 |
その他
| 名前 | 生没年 | 主な活躍 |
|---|---|---|
| ジャン=ポール・マラー | 1743年 - 1793年 | 医師、物理学者、ジャーナリスト。新聞『人民の友』を発行。パリの下層民から強い人気[179]。ダントンと共にコルドリエ・クラブを率いる[180]。開戦に反対[181]。デュムリエ将軍の裏切りの後、ジロンド派大臣の罷免を要求したことでガデから逮捕を要求され、地下に潜伏。告発され自首するも革命裁判所から無罪放免[182]。後にジャコバン・クラブでジロンド派に対する蜂起を訴えた[183]。 |
| ジョゼフ・フーシェ (後にテルミドール派) |
1759年 - 1820年 | コレージュで数学・物理の教師。国民公会の議員となり、ジロンド派寄りの立場。公教育委員会に所属。1793年3月、西部フランスの諸県で兵士徴募の任に。同年6月に中部に派遣され、非キリスト強化運動を激しく推進[184]。派遣議員としてリヨンの大虐殺を行い[185]、パリに戻った後、ロベスピエールと対立[184]。弾圧を行った派遣議員たちと共にテルミドール9日のクーデターを計画[186]。後に警察大臣[184]。ブリュメール18日のクーデターを支援[187]。 |
| ジャン=ランベール・タリアン (後にテルミドール派) |
1762年 - 1820年 | 8月10日事件に参加。国民公会議員に選出され、山岳派に近い立場。保安委員会のメンバーとなり、ジロンド派追放に関与[188]。連邦主義の反乱を受け、ボルドーで過激な弾圧[189]。同じく弾圧を行った派遣議員たちと共にテルミドール9日のクーデターを計画[186]。クーデター後、「恐怖政治のシステム」という概念を提示し、恐怖政治の全責任はロベスピエールにあるとした[190]。ヴァンデミエールの蜂起の後、議員選挙に落選[191]。 |
| ルイ=ラザール・オッシュ | 1768年 - 1797年 | 熱烈な共和派で知られる[192]。16歳で軍に入隊[193]。革命前にフランス衛兵隊(ヴェルサイユとパリを防衛する精鋭部隊)、革命勃発後に国民衛兵隊軍曹から急速に昇進。1792年にティオンヴィル防衛線で軍功。1793年10月に少将としてモゼール方面軍に。アルザス包囲解除に成功。サン=ジュストを後ろ盾としたピシュグリュによる糾弾。1794年4月に投獄、ロベスピエール失脚後に釈放[194]。同年から1795年にかけて西部方面、とりわけキブロンでの王党派撃退に貢献[193]。1796年1月にヴァンデの反乱が再開すると、政府から弾圧を白紙委任され、主に軍事力によって平定[195]。アイルランドでの反乱を援助するため同島への上陸作戦を行うが、嵐のため失敗[196]。フリュクチドール18日のクーデターに参加[197]。 |
| ジャック=ルイ・ダヴィッド | 1748年 - 1825年 | 新古典派の画家。1793年から翌年にかけての革命祭をプロデュース。国民公会の議員となり、山岳派に位置[198]。保安委員会の委員。テルミドール9日のクーデター後、ロベスピエールと近い存在だったため政府委員会メンバー改選の際に交代させられた[199]。約1年間の投獄。後に、ナポレオンの首席画家[198]。 |
| ナポレオン・ボナパルト | 1769年 - 1821年 | 後の皇帝ナポレオン1世 トゥーロン攻囲戦で活躍[200]。、ヴァンデミエールの反乱ではパリ市内に大砲を持ち込み発射するという大胆な作戦で鎮圧を成功させ、「ヴァンデミエール将軍」のあだ名を得る[201]。1796年にイタリア方面軍司令官、その後エジプトに遠征[202]。彼によってフランスの戦争目的に変更が加えられた[203]。クーデターにおいて軍を動かすために兵から人気があり影響力が強い指揮官が必要とされたため[204]、ブリュメール18日のクーデターに参加、革命終了後に第一統領[205]。 |
| ジャン=バティスト・ベルナドット | 1763年 - 1844年 | 後のスウェーデン国王カール14世ヨハン 一時、ジャコバン派の頭目となる プレリアル30日のクーデターの後、陸軍大臣[206]。 |
| ジャック・フランソワ・デュゴミエ | 1738年 - 1794年 | 叩き上げの共和国軍人 トゥーロン攻囲戦でナポレオンの作戦を採用、高く評価 |
| トゥーサン・ルーヴェルチュール | 1743年 - 1803年 | 奴隷出身。一時、奴隷を所有しプランテーション農園を経営。奴隷解放を目的として本国の革命に乗じハイチ革命を指導[207]。 ナポレオンが派遣した軍によって鎮圧され、獄死 |
平原派(沼沢派・テルミドール派)
| 名前 | 生没年 | 主な活躍 |
|---|---|---|
| ラザール・カルノー | 1753年 - 1823年 | 革命前に大尉。立法議会議員となり、軍事委員会で重要な役割。国民公会でも議員を務め[208]、公安委員会に参加し[209]、軍事を担当[210]。同志と共に軍事作戦の立案、兵員と軍需物資の輸送計画を主に担当した[211]。義勇軍と旧王国軍の戦列部隊から成る混成部隊の創出に貢献し、フリュールスの戦いなどで名声。戦略をめぐり、サン=ジュストと対立[208]。政治的には穏和な立場で、ロベスピエールの社会政策、理神論の唱道に反感を抱く[212]。テルミドール9日のクーデターに積極的な賛同[213]。公安委員会を離れていたが[214]、総裁政府発足後に500人会の総裁に選出[215]。軍事専門家として総裁のひとりに。フリュクティドール18日のクーデターに反対しスイスに亡命。ブリュメール18日のクーデター後に帰国、陸軍大臣[208]。 |
| ピエール・ジョゼフ・カンボン | 1756年 - 1820年 | 布地卸売商。1791年に立法議会議員。翌年に国民公会議員[216]、すべての国債を整理統合した指導力で評価される[217]。1793年に議会内財政委員会委員長。同年8月に『公債登録台帳』を設置。富裕層への強制公債を設け、アッシニア紙幣の信用維持に努力した。ロベスピエール失脚を支持するも、後に後悔。最後の山岳派と呼ばれる人々のひとり[216]。 |
| ポール・バラス | 1755年 - 1829年 | 子爵。17歳で軍人、大尉となり1783年に退役。パリに住み財産を蕩尽。バスティーユ襲撃事件に参加。国民公会議員となり、1793年3月に派遣議員として徴兵業務[218]。マルセイユにおいてフレロンと共に過激な弾圧[219]。イギリス軍撤退後に不正蓄財をしたため、ロベスピエールは公安委員会を通じてバラスをパリに召喚。この件で反ロベスピエール派に転ずる[218]。テルミドール9日のクーデターを計画したひとりであり、[220]軍を率いてロベスピエール派を逮捕した[221]。ヴァンデミエールの蜂起ではナポレオンら軍指揮官と共に蜂起を鎮圧[222]、総裁に選ばれる[223]。フリュクティドール18日のクーデターに関与[224]。 |
| ベルトラン・ド・バレール | 1755年 - 1841年 | 弁護士[225]。第三身分の議員として三部会に選出[226]。国王裁判の際、議長を務め[227]国王を尋問した[228]。1793年4月に公安委員会メンバーに。ジロンド派排除の動きに反対[229]。文化政策の一貫として、国民の一体化を進めるためフランス語教育論を展開[230]。サン=ジュストと同じくロベスピエール派と政府委員会における他メンバーの和解を目指していたが断念し、反ロベスピエール側に立つ[231]。その後、ロベスピエール派と密接な関係にあったとしてビョー=ヴァレンヌらと共に国民公会から流刑を宣言された[232]。流刑地へと送られる前に脱走、ブリュメール18日のクーデター後に大赦[229]。 |
| カンバセレス | 1753年 - 1824年 | 国民公会議員[233]。公安委員会のメンバー[234]。ブリュメール18日のクーデター後、ナポレオンの指名により第二統領[233]。 |
アンラジェ(過激派)
| 名前 | 生没年 | 主な活躍 |
|---|---|---|
| ジャック・ルー | 1752年 - 1794年 | 革命前に司祭。1792年12月末にコミューン総評議会評議員に。アンラジェのリーダーであり[235]、サン=キュロット運動の指導者[236]。食糧価格の公定、食糧買い占め人の処刑などを要求[237]。エベール派のコミューンから不安を抱かれ、マラーからは批判された[235]。 |
| ジャン=フランソワ・ヴァルレ | 1764年 - 1832年 | 郵便局員。所属するセクションの域を超えて活動。強制委任、議員の罷免、人民による法律の承認、蜂起権などサン=キュロットの最も急進的な部分の他[238]、食糧価格の公定、食糧買い占め人の処刑などを要求[237]。ジロンド派逮捕前の事件で、エベールと共に逮捕されるも山岳派によって釈放[239]。後に33セクションの代表に選出された「革命中央委員会」の暫定議長。ジャック・ルーの活動とも関係していたが、ジャコバン・クラブでの活動停止処分。投獄などを受け表舞台から姿を消したが、出獄後、「選挙クラブ」でバブーフと接点[238]。 |
| ジャン=テオフィル・ルクレール | 1771年 - 没年不明 (1804年以降) | マラー死後、『人民の友』2代目編集長[240]。1794年4月に妻ポーリーヌ・レオンと共に逮捕。釈放後は政治生活から引退[241]。 |
| ポーリーヌ・レオン(フランス語版) | 1768年 - 1838 年 | 革命的共和主義女性市民協会の指導者のひとり。エベール派の支持者[242]。 チョコレート職人[243]。開戦後、女性も戦争に参加する権利を要求[244]。8月10日事件に参加[245]。クレール・ラコンプと共に革命的共和主義の女性市民を率い、女性の公職への権利と武器をとる権利のため活動[246]。1794年4月に夫ルクレールと共に逮捕。釈放後は政治生活から引退[241]。 |
| クレール・ラコンブ | 1765年 - 没年不明 (1798年以降) | 革命的共和主義女性市民協会の指導者のひとり。エベール派の支持者[242]。 ポーリーヌ・レオンと共に革命的共和主義の女性市民を率い、女性の公職への権利と武器をとる権利のため活動[246]。逮捕、後に釈放[241]。 |
| テロワーニュ・ド・メリクール | 1762年 - 1817年 | ヴェルサイユ行進に参加[247]。女性が武装する権利を擁護。8月10日事件に参加[248]。ジロンド派を支持したため山岳派支持者の女性から暴行を受け、再起不能に[249]。 |
その他
| 名前 | 生没年 | 主な活躍 |
|---|---|---|
| タレーラン=ペリゴール | 1754年 - 1838年 | 貴族。生まれつき足が不自由だったため軍隊ではなく聖職に就き、1789年に司祭[250]。三部会議員に選出され、三身分の合同会議開催を推進[251]。国債の償還、礼拝の費用、聖職者の生活、貧民の救済にあてるため、教会財産の国有化と売却を提案[252]。聖職者公民基本法に最初に署名し市教職を捨てる[251]。全国連盟祭でミサを執り行う[253]。立法議会のもとで外相としてのキャリアを開始[251]。穏和な共和派が開く「立憲サークル」に参加[254]。総裁政府期に外務大臣[255]。ブリュメール18日のクーデターの際、シエイエスとナポレオンの仲介役を務める[256]。第一王政復古期に外相としてウィーン会議に出席[251]。 |
| マルキ・ド・サド (サド侯爵) |
1740年 - 1814年 | 文学者、小説家。無神論者でエロティックな作品も執筆、禁書となる。監獄、精神病院に何度も収容された[257]。 |
| アントワーヌ・ラヴォアジエ | 1743年 - 1794年 | 化学者として、質量保存の法則の発見など業績多数 徴税請負人。『化学原論』の著者[258]。コンドルセらと共に度量衝委員会に任命[259]。 |
| スタール夫人 | 1766年 - 1817年 | ネッケルの娘 文学の才能を発揮。サロン運営によってシエイエス、ジロンド派、王室とも繋がり。テルミドール9日のクーデター後、父親のスイス領であるレマン湖コぺに亡命。パリとの間を往復[260]。穏和な共和派が開く『立憲サークル』に参加[261]。 |
| スタール=ホルシュタイン (スタール男爵) |
1749年 - 1802年 | スタール夫人の夫 スウェーデンの駐仏大使 |
| シャルル=アンリ・サンソン | 1739年 - 1806年 | パリの死刑執行人、ギロチンの操作係 恐怖政治期に多くの人々の処刑に関る |
| シャルロット・コルデー | 1768年 - 1793年 | 小貴族出身。パリから逃れてきたジロンド派議員の話に共感し、連邦主義の反乱を支持[262]。マラーを革命の行き過ぎを体現する人物と見做し、暗殺を計画・実行[263]。議会と民衆運動の接点に立っていたマラーを殺したことで革命政府の形成と恐怖政治の遠因になった[264]。 |
| リュシル・デュプレシ | 1770年 - 1794年 | 夫デムーランと共に革命を支持し、8月10日事件の際には「我々は自由になりたい」と日記に書き残す[265]。デムーランが恐怖政治を終焉させるため寛容を主張するキャンペーンを展開した際、これを支持し、家族ぐるみで付き合いがあったロベスピエールと反目するようになる[266]。 |
| テレーズ・カバリュス (タリアン夫人) |
1773年 - 1835年 | スペインの金融業者の家の出。フランスの貴族と結婚したが、革命期に成立した離婚法によって離婚。ボルドーから南に移住、または連邦主義の反乱を避けようとする貴族のためタリアンを利用[267]。テルミドール9日のクーデター後にタリアンの手引きによって釈放され、結婚[268]。後に疎遠となり、バラスの愛人に[269]。 |
| オランプ・ド・グージュ | 1748年 - 1793年 | 奴隷制を扱った小説、戯曲などを執筆。1788年から政治的文書も制作[270]。子供と財産をめぐる婚姻協定のための社会契約草稿と女性市民の権利宣言を王妃に捧げる形で出版[271]。ジロンド派のルーヴェが九月虐殺の責任をめぐり国民公会と対立した際、パリ市内にてルーヴェを支持するビラを署名入りで貼り出す。ジロンド派追放後、彼らを擁護する公開書簡を作成[272]。ジロンド派に近い存在だったため連邦主義の反乱との繋がりを疑われる[273]。 |
| エドマンド・バーク | 1729年 - 1797年 | 保守主義の創始者[274]。1757年に『崇高と美の観念の起源』を出版[275]。ヴァレンヌ事件後、イングランドでパンフレットの応酬が起きた際、著書『フランス革命の省察』を出版し高い売れ行きを記録した[276]。 |
革命初期の大臣達
| 名前 | 生没年 | 主な活躍 |
|---|---|---|
| ジャック・テュルゴー | 1727年 - 1781年 | 1774年、財務総監に就任[277]。重農主義を掲げ、統制経済に反対して自由放任を唱える流れを汲んで、穀物取引の自由を実現しようとしたが失敗。立法議会はテュルゴーらの影響の元に、1791年憲法の体制において所有権と取引の自由を絶対視した[277]。 |
| ジャック・ネッケル | 1732年 - 1804年 | スイスの銀行家だったがルイ16世の要請を受けテュルゴー更送護、1777年から財務大臣に[278]。ルイ16世が任じた唯一の貴族出身でない大臣[279]。財政改革に乗り出すも1781年に罷免。1788年に復職[278]。国王顧問会議にて、三部会における第三身分議員の倍増を主導[280]。翌年7月11日に罷免されるも、バスティーユ襲撃事件を受けて呼び戻し[281]。王国政府の首席大臣。1790年に辞任[278]。亡命後、故郷から『フランス国民に提示するルイ16世裁判についての省察』を執筆、王党派として国王救命を訴えた[282]。 |
| カロンヌ | 1734年 - 1802年 | 徴税官、高等法院検事[283]。1783年11月より財務総監[284]。特権身分の免税廃止という名の増税と財政負担の平等化を試みるも挫折[283]。改革に対する支持を固め、予想される高等法院の反対に対処するため名士会の招集を提案[285]。アメリカ独立戦争による財政赤字拡大を受け、財政の困窮を告げる意見書を国王に提出[286]。革命初期に亡命、アルトワ伯の意を受け反革命として行動[287]。 |
在外君主・首相
| 名前 | 生没年 | 主な活躍 |
|---|---|---|
| レオポルト2世 | 1747年 - 1792年 | 神聖ローマ皇帝(在位:1790年 - 1792年) マリー・アントワネットの兄にあたる[288]。他国と軍事同盟を組み、ブラバンド革命を崩壊させた[289]。1791年8月27日、フリードリヒ・ヴィルヘルム二世と連名でピルニッツ宣言を発する。これはマリー・アントワネットに対する民衆の不信感を募らせた[288]。他方、宣言はヴァレンヌ事件を受けて対応せざるを得なかったため出されたものであり、彼らにとってはポーランド問題のほうが重要だったため本気でフランスに介入する意思はなかった[290]。 |
| フランツ2世 | 1768年 - 1835年 | 神聖ローマ皇帝(在位:1792年 - 1806年) |
| フリードリヒ・ヴィルヘルム2世 | 1744年 - 1797年 | プロイセン王(在位:1786年 - 1797年) オランダにおいて愛国派の運動を鎮圧[293]。1791年8月27日、レオポルト二世と連名でピルニッツ宣言を発する[288]。 |
| グスタフ3世 | 1746年 - 1792年 | スウェーデン王(在位:1771年 - 1792年) フランス革命に敵対的[294]。反革命十字軍を提唱 フェルセン伯爵の主君 |
| ウィリアム・ピット (小ピット) |
1759年 - 1806年 | イギリス首相(在位:1783年 - 1801年、1804年 - 1806年) 対仏大同盟を組織し、軍事資金を確保。革命政府は彼を「人類の敵」と呼んだ[295]。 |
関連図書
- Ballard, Richard. A New Dictionary of the French Revolution (2011) excerpt and text search
- Fremont-Barnes, Gregory, ed. The Encyclopedia of the French Revolutionary and Napoleonic Wars: A Political, Social, and Military History (3 vol. 2006)
- Furet, Francois, et al. eds. A Critical Dictionary of the French Revolution (1989) long articles by scholars excerpt and text search
- Hanson, Paul R. Historical Dictionary of the French Revolution (2004).
- Ross, Steven T. Historical Dictionary of the Wars of the French Revolution (1998)
- Scott, Samuel F. and Barry Rothaus, eds. Historical Dictionary of the French Revolution (2 vol. 1985) full text online
- 山崎耕一『フランス革命 「共和国」の誕生』、刀水書房、2018年9月、ISBN 978-4887084438。
- 松浦義弘、山崎耕一 他「東アジアから見たフランス革命」2021年3月、ISBN 978-4759923728。
- ジャン=クレマン・マルタン(フランス語版) 著、田中正人 訳『ロベスピエール 創られた怪物』法政大学出版局、2024年、ISBN 978-4588011733。
- ピーター・マクフィー(英語版) 著、永見瑞木・安藤裕介 訳『フランス革命史――自由か死か』白水社、2022年、ISBN 978-4-560-09895-0。
- ロジャー・プライス 著、河野肇 訳「フランス革命とナポレオン帝国」『フランスの歴史』創土社〈ケンブリッジ版世界各国史〉、2008年8月、ISBN 978-4-7893-0061-2。
脚注
- ↑ 山崎2018、P.14
- ↑ マクフィー2022、P.66
- ↑ ロジャー2008、P.144
- ↑ マクフィー2022、P.141-142
- ↑ マクフィー2022、P.183
- ↑ マクフィー2022、P.182
- ↑ マクフィー2022、P.210
- ↑ 松浦2021、P.118
- ↑ マクフィー2022、P.205
- ↑ 山崎2018、P.241
- ↑ マクフィー2022、P.383
- ↑ 山崎2018、P.300
- ↑ ロジャー2008、P.203
- ↑ マクフィー2022、P.104
- ↑ 山崎2018、P.54
- ↑ マルタン2024、P.47
- ↑ 山崎2018、P.98
- ↑ ロジャー2008、P.127
- ↑ 山崎2018、P.103
- ↑ マルタン2024、P.352
- ↑ https://en.chateauversailles.fr/discover/history/great-characters/madame-barry
- ↑ https://en.chateauversailles.fr/discover/history/great-characters/axel-von-fersen
- 1 2 https://en.chateauversailles.fr/discover/history/great-characters/madame-polignac
- ↑ マクフィー2022、P.104
- ↑ マルタン2024、P.225
- ↑ https://en.chateauversailles.fr/discover/history/great-characters/elisabeth-louise-vigee-brun#the-emigration-1789-1802
- ↑ 山崎2018、P.30
- 1 2 マルタン2024、P.50
- ↑ 山崎2018、P.103
- ↑ マクフィー2022、P.162
- ↑ マクフィー2022、P.61
- ↑ マクフィー2022、P.104
- ↑ 山崎2018、P.53
- ↑ ロジャー2008、P.152
- ↑ 山崎2018、P.102
- ↑ マクフィー2022、P.141
- ↑ マクフィー2022、P.190
- ↑ マルタン2024、P.88-89
- ↑ ロジャー2008、P.163
- 1 2 山崎2018、P.134
- ↑ 山崎2018、P.138
- ↑ ロジャー2008、P.231
- 1 2 マルタン2024、P.127
- ↑ 山崎2018、P.44
- ↑ 山崎2018、P.54-55
- ↑ マクフィー2022、P.105
- ↑ 山崎2018、P.107
- ↑ 山崎2018、P.110
- ↑ 山崎2018、P.29
- ↑ マクフィー2022、P.50
- ↑ マクフィー2022、P.79
- ↑ マクフィー2022、P.97
- ↑ 松浦2021、P.100
- ↑ 山崎2018、P.43
- ↑ 山崎2018、P.283
- ↑ 山崎2018、P.267
- ↑ 山崎2018、P.287
- ↑ 山崎2018、P.290
- ↑ 山崎2018、P.291
- 1 2 3 マルタン2024、P.46
- 1 2 3 マクフィー2022、P.209
- ↑ 山崎2018、P.104
- ↑ 山崎2018、P.121
- ↑ マクフィー2022、P.76
- ↑ https://www.britannica.com/biography/Adrien-Jean-Francois-Duport
- ↑ マルタン2024、P.132
- ↑ マルタン2024、P.88-89
- ↑ https://www.britannica.com/biography/Louis-Philippe-Joseph-duc-dOrleans
- 1 2 マルタン2024、P.221
- ↑ 山崎2018、P.158
- ↑ 山崎2018、P.165
- ↑ マルタン2024、P.452
- ↑ マクフィー2022、P.199
- ↑ マクフィー2022、P.61
- ↑ マクフィー2022、P.205
- ↑ ロジャー2008、P.163
- ↑ 山崎2018、P.128-129
- ↑ 山崎2018、P.144
- ↑ 山崎2018、P.151
- ↑ 山崎2018、P.160
- ↑ マルタン2024、P.219
- ↑ マルタン2024、P.46-47
- ↑ マクフィー2022、P.232
- 1 2 マルタン2024、P.133
- ↑ マクフィー2022、P.156
- ↑ マクフィー2022、P.213
- ↑ 山崎2018、P.133
- ↑ 山崎2018、P.138
- ↑ マルタン2024、P.133
- 1 2 マルタン2024、P.44
- ↑ 山崎2018、P.118
- 1 2 マルタン2024、P.220
- ↑ 山崎2018、P.160
- 1 2 マルタン2024、P.226
- ↑ 山崎2018、P.162
- 1 2 3 4 マルタン2024、P.45
- ↑ マクフィー2022、P.80
- ↑ 山崎2018、P.104
- ↑ 山崎2018、P.136
- ↑ マルタン2024、P.221
- ↑ 山崎2018、P.159-160
- ↑ マクフィー2022、P.76
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関連項目
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