ナポレオンの作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/17 06:35 UTC 版)
「トゥーロン攻囲戦」の記事における「ナポレオンの作戦」の解説
偵察の結果により、ナポレオン・ボナパルトは、ル・ケール(= カイロ)の丘を占領することにより、岬にあるレギエットとバラギエの要塞の攻略を計画した。それらはトゥーロンの内港と外港を遮断する位置にあり、包囲下の都市にとって不可欠な海からの補給を止めることができた。しかしカルトーは乗り気でなく、ドラボルド少将以下のわずかな支援しか送らなかったため、9月22日に行われた攻撃は失敗した。イギリス・スペイン連合軍は、それによってル・ケールの丘の重要性に気づき、頂上に新たに砦を築いて、防衛司令官の名前をとってマルグレーヴ砦と名付けた。それは3つの小さな拠点で支えられた堅固なものであり、イギリス人から「小ジブラルタル」と呼ばれた。 ナポレオンは、19日からサン・ローランの高台に置かれ、単に「山」と呼ばれた孤立した砲台では不十分だと考えた。21日、彼は内港西部のブレガリヨン(Brégallion)の海沿いに「サン・キュロット」と名づけたもう一つの砲台を構築した。フッド提督はそれを沈黙させようとしたが失敗し、なおかつ東岸のムリヨン(Mourillon)とラ・トゥール・ロワイヤル(la Tour Royale)側の水深が浅かったため、イギリス艦隊は別の海岸に沿って集結せざるを得なかった。10月1日、ラポワプ将軍によるファロン山の「東の砦」攻撃が失敗した後、ナポレオンは、市の攻略のために落とさなければならないマルブスケの大きな砦の砲撃を要請された。彼は周辺地域から砲兵を集合させ、各々6門の大砲を持つ50個隊を揃えた。10月19日、ナポレオンは大隊指揮官に昇進し、アレーネの丘に、砦に向けた大砲台「国民公会の砲台」を構築した。それは、デュモンソー(Dumonceau)の丘の「共和派のキャンプ」、ゴー(Gaux)の丘の「ファリニエール(Farinière)」、ラグブラン(Lagoubran)の「火薬庫」などによって支えられていた。
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