デュゴミエの着任と攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/17 06:35 UTC 版)
「トゥーロン攻囲戦」の記事における「デュゴミエの着任と攻撃」の解説
11月11日にカルトーが更迭され、新たに、以前は医者だったドッペが指揮官となった。しかし彼は決断力に乏しく、16日にマルグレーヴ砦への攻撃に失敗するという事態を招いてしまった。ドッペは自らの無能に気づいて辞任した。彼の後任のデュゴミエはたたき上げの職業軍人であり、すぐにナポレオンの作戦の長所を認め、小ジブラルタルの奪取に取り掛かった。20日、彼は到着するとすぐに隆起の上に「ジャコバン党員」砲台を構築し、11月28日にはその左に「恐れを知らぬ男」砲台、12月14日にはそれらの間に「シャース・コカン(Chasse Coquins)」砲台を作った。最終的にはさらに2つの砲台が、連合軍の軍艦を撃退するために作られた。それらは「大いなる港」および「4つの風車」と呼ばれた。 砲撃の圧力によってイギリス・ナポリ連合軍が進出し、「国民公会」砲台を奪取した。デュゴミエとナポレオンは反撃の先頭に立ち、彼らを押し戻した。そのとき、イギリスの指揮官オハラ将軍が負傷してフランス側に捕らえられた。彼はオーギュスタン・ロベスピエールおよびアントワーヌ・ルイ・アルビット(Antoine Louis Albitte)と、連邦主義者と王党派の軍の武装解除および降服の交渉を始めた。
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