フランス軍の作戦と布陣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 00:26 UTC 版)
「アウステルリッツの戦い」の記事における「フランス軍の作戦と布陣」の解説
ナポレオンは連合軍からの攻撃を望んでおり、このため彼は意図的に右翼(南側)を弱体化させている。11月28日、本営でナポレオンと元帥たちとが会見した際に元帥たちは来たる戦いへの懸念を表明した。彼らは撤退さえ進言したが、ナポレオンは部下たちの不安に対して肩をすくめるだけだった。 フランス軍とウィーンとの連絡線を断つべく連合軍はフランス軍右翼に対して戦力を集中させるとナポレオンは予想していた。その結果、連合軍中央部の側面が曝され弱体化する。彼らにそうさせるべく、ナポレオンは緊要地形であるプラッツェン高地の放棄までし、自軍の弱体化を装い、更には彼自身の焦燥した様子を敵に見せた。その一方でナポレオンは主力部隊を高地から死角になる場所に隠させている。作戦計画では、フランス軍はプラッツェン高地を奪回し、この高地から連合軍主力に対して決定的な攻撃を仕掛けて混乱させ、背面から包囲することになっていた。 「 もしも、ロシア軍が右翼へ向かうべくプラッツェン高地を離れたなら、彼らは確実に敗北するだろう。 」 —ナポレオン 連合軍中央部に対する主攻勢はスールト元帥率いる第4軍団の兵16,000によって行われる。第4軍団の位置は深い霧に覆われており、この霧がいつまで続くかがナポレオンの作戦にとって極めて重要であった。霧が早く晴れればスールトの部隊が暴露されてしまう。だが、霧があまりに長く残れば、連合軍がプラッツェン高地から離れたか否か分からず、攻撃のタイミングを適切に判断できなくなる。 その一方で、弱い右翼(南側)を補強するために、ナポレオンはウィーンにいるダヴー元帥の第3軍団に強行軍を命じ、連合軍主力からの猛攻を耐えねばならないフランス軍南方面を守備するルグラン (en) 師団将軍の部隊との合流を図らせた。ダヴーの部隊は110kmを48時間行軍せねばならなかった。彼らの到着には作戦の成否がかかっていた。 実際、ナポレオンの布陣では右翼は非常に危険なほど過少な兵力が守備に着いているだけだった。しかしながら、ナポレオンがこの様に危険な策を採った理由は二つあり、一つは第3軍団司令官のダヴーは配下の中でも最良の元帥だったこと、もう一つは右翼は河川と湖沼が入り混じった複雑な地形だったことである。更に、フランス軍は既にブリュン方面への第二の退却路を新設していた。皇帝近衛隊 (en) とベルナドット元帥の第1軍団は予備兵力とされ、ランヌ元帥の第5軍団が新設された連絡線を守る戦場北方面の守備に充てられた。 1805年12月1日、連合軍がナポレオンの想定通りに南方へ移動し始めるに従い、フランス軍は配備位置に布陣した。 会戦前夜、ナポレオンが少数の護衛とともに前線の視察に出ると兵士たちが皇帝であると気づき、すぐに兵士たちは「皇帝万歳!」を叫び松明に火を灯して戴冠一周年を祝った。連合軍の司令官や兵士たちはこの様子を見て撤退の準備であると信じた。
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