ナポレオンの帰還
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「ワーテルローの戦い」の記事における「ナポレオンの帰還」の解説
詳細は「百日天下」および「第七次対仏大同盟」を参照 1812年6月、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトは64万の大軍を率いてロシア遠征を開始するが、結果は兵力の大部分を失う惨敗に終わった。1813年、ナポレオン率いるフランス軍(大陸軍)はドイツにおいてロシア、プロイセンを中心とする反仏諸国と解放戦争(諸国民戦争)を戦うことになり、連合軍にスウェーデンそしてオーストリアが参加したことでナポレオンはこの戦いでも敗退した。1814年、フランス国内に侵攻する連合軍との戦いで劣勢な兵力のナポレオンは巧みな指揮ぶりを示して善戦するが、パリが開城したことで4月6日にナポレオンは退位を余儀なくされ、地中海のエルバ島に流された。 戦勝した列強国が開催したウィーン会議の取り決めによってフランスではルイ18世が即位してブルボン王朝が復活した。だが、この王政復古は人気がなく、国内では不満が高まった。1815年2月26日、エルバ島から脱出したナポレオンはフランスのジュアン湾(英語版)に上陸し、パリへ進軍した。途中、ミシェル・ネイ元帥を従え、7,000にふくれ上がった軍隊を率いて3月20日パリに入城し再び皇帝となった。 ナポレオンがパリに到着する6日前の3月13日、ウィーン会議の列強国は彼を無法者であると宣告した。4日後、イギリス、ロシア、オーストリアそしてプロイセンはナポレオンを倒すべく動員を開始する。ナポレオンは連合軍を国内で迎え撃つ守勢戦略も考慮していたが、王党派を勢いづかせる危険があり、連合国の準備が遅れていると看破した彼は機先を制することにした。 ナポレオンはイギリス・オランダ連合軍とプロイセン軍がまだ合流しないうちに各個撃破を計画し、12万の兵を率いて連合軍に戦いを挑むべくベルギーへ向かった。ベルギーに駐留していたのはウェリントン公率いるイギリス・オランダ連合軍の11万とブリュッヘル元帥率いるプロイセン軍12万であった。ブリュッセル南方に駐屯する連合軍を増援が到着する前に撃破できればイギリス軍を海に追いやり、プロイセンを戦争から脱落させられる。これに加えてベルギー南部にはフランス語圏の親仏派住民が多く、フランス軍の勝利は当地の革命の引き金になるであろうことも考慮された。またイギリス軍はスペインの半島戦争で鍛えられたベテラン兵の大半を米英戦争のため北米へ送っており、ベルギー駐留軍のほとんどは二線級の兵士であった。 ウェリントンの当初の配置はモンスを経てブリュッセル南西に進出して連合軍の包囲を図るであろうナポレオンの脅威に対処することを意図していた。これはウェリントンの策源地であるオーステンデとの連絡線が失われることになるが、彼の軍はプロイセン軍に近づくことにもなる。ナポレオンは誤った情報により、ウェリントンは海峡諸港との補給線が断たれることを恐れていると計算していた。ナポレオンは左翼をネイ元帥、右翼をグルーシー元帥におのおの指揮させ、予備軍は自ら率い、これら三軍は相互支援が可能な距離に展開させた。フランス軍は6月15日明け方にシャルルロワから国境を越えて連合軍の前哨部隊を蹂躙し、フランス軍を英蘭軍とプロイセン軍との中間に進出させた。
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