再びパリへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 17:14 UTC 版)
1947年再びパリに戻り、ピエール・ド・マンディアルグ、レプリやその他の友人たちと共同生活を営んだ。フィニは一夫一婦制に縛られることのない自由な愛の形を選び(1941年にフェデリーコ・ヴェネツィアーニと結婚したが、それはまもなく破綻した)、しばしば複数の仲間とコミューン的な生活を営んでいる。その中でも特にスタニスラオ・レプリとポーランド人作家コンスタンティン・ジェレンスキーとは1980年のレプリの死と1987年のジェレンスキーの死まで共に暮らした。レプリは外交官であった頃、フィニに勧められて再び絵筆を取り、1949年にはブリュッセル総領事の職を捨てフィニと共に暮らし始め画家となった。ジェレンスキーは1951年にローマでフィニと知り合い、当時勤務していた国連の世界食料機構(FAO)の仕事を捨てパリでフィニらと共に暮らすことを選んだ。フィニは『レプリとジェレンスキーの三人で暮らした日々が生涯で最も美しい日々だった』と回想している。フィニは1996年に肺炎によりパリの病院で88年の生涯の幕を閉じたが、のちに望み通り別荘のあったロワール河畔の小村の墓地に、レプリとジェレンスキーと共に埋葬された。 文学を愛するフィニは100を越える本に挿絵を提供した。シェイクスピアやボードレール、ネルヴァルの『オーレリア』ペトロニウスの『サテュリコン』、サド侯爵の『ジュリエット』、ポーリーヌ・レアージュの『O嬢の物語』の他、友人たちの小説や詩のためにも挿絵も描いた。フィニは自分自身でも1970年代に小説を書いている。短編小説『ヴィブリッサの物語』、長編小説『ムールムール 毛の生えた子供たちのための物語』『オネイロポンプ(夢先案内人)』(邦題『夢先案内猫)』『ロゴメレック』である。 幼い頃から猫はフィニの特別な友人だった。たくさんの猫と共に暮らし、多いときには23匹いたともいう。ジェレンスキーは、フィニは大いなる生命の流れであり、猫たちはその大いなる生命の流れの一部であると言っている。フィニは猫たちの写真や自身の文章による本『猫の鏡』や『アトリエの猫』も出している。ロワール地方の別荘に行くときには大型のリムジンに猫たちを乗せて移動したという。
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