里見宗次とは? わかりやすく解説

里見宗次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 08:20 UTC 版)

里見 宗次(さとみ・むねつぐ、1904年11月2日 - 1996年1月30日[1][2])は、日本グラフィックデザイナー大正時代に渡仏し、第二次世界大戦の時期を除いて戦前・戦後のパリで活動。ムネ・サトミ (Mounet Satomi) の名でも呼ばれる。


  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 里見宗次”. 東京文化財研究所. 2014年12月11日閲覧。
  2. ^ a b c d 里見宗次”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(コトバンク所収). 2014年12月11日閲覧。
  3. ^ 小出は、里見邸の襖絵を制作している。
  4. ^ 但し、家族から反対されたこともあり、正式に結婚の手続きをとったのは父の死後、1930年のことであった。この間、長男ペーター(日本名時宗)が1928年に誕生している。
  5. ^ 第137回デザインギャラリー1953「里見宗次のポスター」”. 2014年12月11日閲覧。
  6. ^ 雑誌「広告界」の編集長であった室田庫造が、連絡もなく単身パリに現れ、里見はやむなく手伝ったものともされる。
  7. ^ 松本、164頁(瀬木ほか、120頁も同旨)。アルコの作品にはその大半に1939年のサイン(里見の作品には、その殆どに19XX年制作を示す "SATOMi XX" のサインが入る)があり、松本の記述とは矛盾する(一部作品には "SATOMi 41" のサインがあるが、里見がニューヨークから帰国したのは1940年7月であるとされ(松本、165頁)、これとも矛盾する)。なお、高田隆雄「アルコの広告とある出会い」(鉄道ファン247号(交友社、1981年11月号)、pp.100-105)において、高田が里見と1949年にバンコクで偶然会って聞いた話として「パリからニューヨーク経由で日本に送還される途中、ニューヨーク到着時には無一文に近い状況だったが、アルコとの連絡の結果、広告謝礼の支払いを受けた」旨の記述がある。また同記事で転載されているポスターには、サインとは別に縁に記された日付が「December 2, 1939」や「December 30, 1939」とも読み取ることができ(101-102頁)、松本の記述(162頁)でも「ニューヨークに着いたのがクリスマスでした」とある。以上のことから、アルコのポスター制作は1940年の渡米時以前、あるいは送還の途次に行われていた可能性が高い。
  8. ^ 松本、181頁。瀬木ほか、120頁では元タイ外相のビチットによる斡旋とする。
  9. ^ 佐伯祐三が描いた「扉」(1928年)は、同アパートの門扉である。
  10. ^ 1991年に総制作数2万点を達成した。瀬木ほか、123頁。


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