再びドイツへ 1921 – 1941
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「アレクセイ・フォン・ヤウレンスキー」の記事における「再びドイツへ 1921 – 1941」の解説
ガルカ・シャイアーは1921年に、ヴィースバーデンで開かれたナッサウ芸術協会の展覧会へのヤウレンスキーの参加を手だてしている。これは、彼にとって単なる成功だけを意味するものではなかった。「私はかの地でとてもやさしい人々と出会い、住まいをヴィースバーデンに構えることを決心した。」、とヤウレンスキーは自身の回顧録の中で述べている。 1922年にヤウレンスキーはヴェレフキンと別れ、6月にヴィースバーデンでメイドのヘレーネと結婚した。 多くの仲間の勧めに反してヤウレンスキーは、かつてはずっと版画の制作に手を出さなかった。生活の新たな困窮に屈した形で、彼は新居でリトグラフとエッチングに取り組み始めた。ヤウレンスキーはナッサウ芸術協会で、リトグラフによる白黒の「頭部」の6枚の習作を制作した。このころ彼はエッチングも制作しており、長い間4つの作品のみが知られていたが、1987年までにさらに4つの版がヴィースバーデンで見つかっている。 1924年、シャイアーはヤウレンスキー、カンディンスキー、パウル・クレー、リオネル・ファイニンガーの4人と意見が一致し、青の四人(ドイツ語版)の名をもってアメリカにその名を知らしめ、作品を売るためにグループを結成した。その後の数年間は、ヤウレンスキーの商業的成功は浮き沈みのあるものであった。 ヴィースバーデンでの交友関係についていえば、ヤウレンスキーは1927年にふたりの女性と知り合っている。リーザ・キュンメル (1897 - 1944)とハンナ・ベッカー・フォム・ラート(ドイツ語版) (1893 - 1983)である。ふたりはいろいろとヤウレンスキーを気にかけ、手を差し伸べた。女流工芸家であったキュンメルとは春に知り合っている。彼女はヤウレンスキーが他界するまで、彼の事務仕事と私的な仕事を片付けつづけ、絵画の管理を請け負って初めての作品目録を作成し、回顧録の口述筆記を任された。1927年6月にヤウレンスキーの関節炎の悪化傾向がはっきりしてくると、彼女はヤウレンスキーをバート・ヴェーリスホーフェン(ドイツ語版)へ初めての湯治に連れて行った。女流芸術家で彫刻家・美術商のベッカー・フォム・ラートとは、その年の終わりに知り合っている。彼女はヤウレンスキーが生活に必要な金銭的支柱を得られるよう、1929年に「アレクセイ・フォン・ヤウレンスキーの芸術同好会」を設立した。 1930年手の不随がひどくなり、ヤウレンスキーはは女流芸術家イダ・ケルコフィウス(ドイツ語版)の金銭的援助を受けてシュトゥットガルトの医院へ3カ月間通った。その後まもなくして、ヤウレンスキーはスロヴァキアの保養地ピエシュチャニへの旅路に着いた。しかしヤウレンスキーは消えない痛みに悩まされた。一か月余りの間、しばしばベッドから動けない状態が続き、つきっきりの医療処置を必要とした。 1933年のアドルフ・ヒトラー指揮下国家社会主義政権による権力掌握ののち、「頽廃芸術」排斥の一角としてヤウレンスキーの絵画もまた、展覧会に並べることを禁じられた。 1934年以降、ヤウレンスキーは絵筆を握る手に力がまったく入らなくなることがたびたびあった。進行する運動機能減退に制限される中、彼は新たな手法の作品を制作した。再び「頭部」が主題となり、実際に瞑想をすることと「抽象的な頭部」とを制作活動が結び付けた。ここで描かれた連作の特徴は、右か左に傾いていることであった。さしあたり「私の病んだ手の回想 (Erinnerung an meine kranken Hände)」(CR 1473)のように、あごの先はまだ丸みを見せていた。遅くとも6月には、ヤウレンスキーは絵を描くのに左手の助けを借りざるを得なくなっていた。このころリーザ・キュンメルは、彼女が処理していたヤウレンスキーの実際的な仕事について、ヴィースバーデンの芸術家アロ・アルトリップ(ドイツ語版)の助力を得ている。彼なくしては、「瞑想」と名付けられた1937年からの連作はもっと小規模で、いくらか貧弱なものになっていたかもしれない。アルトリップは、ヤウレンスキーがかつて「20世紀のイコン画家だ」と呼んだまさにその人であった。1935年二月、ヤウレンスキーはシャイアーに、すでに「400点以上もの」頭部の新作を描いたと知らせ、それらは以前とはまたスタイルを変えていた、というのはヤウレンスキーは手の不自由が増し、もはやわずかばかりの丸みしか描けなくなっていたからである。この局面に至って頭部のあごは、「回想 (Rückblick)」(CR 2092)のように画面の下縁ぎりぎりをかすめるようになった。翌月には病状が悪化し、水平線と垂直線及び斜めに切るような筆致でしかほとんど描けなくなった。「瞑想」の連作は、「静かな炎 (Verhaltene Glut)」(CR 2092)のように常に真正面を向いて構成されている。痛みが弛緩して手が再び動かせる時にはいつも、ヤウレンスキーは静物画もまた描いていた。アルトリップとその周辺は1936年ヤウレンスキーに、金箔を貼ったスケッチブックに5つの「瞑想」を描くことを提案した。「金色の背景の瞑想 (Meditation auf Goldgrund)」(CR 2033)を参照。 1937年以降、ヤウレンスキーは車いす生活を余儀なくされ、キュンメルの手助けなしに外界と直接意思疎通することさえできなくなった。ナチスによる頽廃芸術糾弾はさらに激化し、72点のヤウレンスキー作品がドイツの美術館から押収され、そのうちの3点がミュンヘンで開かれた頽廃芸術展に並べられた。12月、最後の「瞑想」を描いた。「大いなる悩み (Das große Leiden)」(CR 2157)がそれであるが、この作品は今までにも増して暗く、ほとんどモノクロといえる色彩であったが、それにもかかわらず半ば明るさを見せていた。 ヤウレンスキーは床に伏して残りの余生を過ごし、1941年3月15日、76歳で没した。棺はヴィースバーデンの正教会の、ロシア人画家カール・ティモレオン・フォン・ネフ(ドイツ語版)の手によるイコノスタシスの前に安置された。ヤウレンスキーはヴェレフキンの引用から、伝統的なロシアのイコン芸術を革新した人物としてカールをよく知っていた。ヤウレンスキーの長年の友人であったアドルフ・エルプスレーが弔辞を読んだ。教会のすぐ傍のロシア正教墓地に埋葬された。ヤウレンスキーの遺品は現在、スイスのロカルノにあるヤウレンスキー文書館で管理されており、文書館の作品目録はさらに編集が続けられている。
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