再びグライダーの世界へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 14:08 UTC 版)
「ハンナ・ライチュ」の記事における「再びグライダーの世界へ」の解説
戦後、ドイツ人の航空機での飛行は禁止されていたが、グライダー飛行はまもなく許可され、スペインでのグライディング世界大会で3位になったのを手始めに、女性の高度飛行記録(6848 m)を含む数々の世界記録を更新し続け、1955年にはドイツチャンピオンになった。 1959年、ネルー首相からインドへ、1961年、ジョン・F・ケネディ大統領からアメリカへ招かれ、黒人初のグライダー飛行学校を作ったガーナに1962年から1969年にかけて居住した。また、1970年代を通して、アパラチア山脈間での 715km(1976年)、802km(1979年)飛行記録を含む、様々なグライダー部門における女性世界記録を塗り替えた。同時期、第1回世界ヘリコプター大会女性部門で1位にもなった。 1970年代からライチュを撮っていたアメリカの写真記者から大戦中での痛恨事をインタビューされた際には、戦時中の国家社会主義(ナチズム)への傾倒を恥じていないこと、未だにヒトラーから授与された鉄十字章を身に付けていることを述べていた。 1979年にフランクフルトにて心筋梗塞で死去。67歳没。生涯独身だった。
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