再びブルノへ戻るとは? わかりやすく解説

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再びブルノへ戻る(1880年 - 1916年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 16:01 UTC 版)

レオシュ・ヤナーチェク」の記事における「再びブルノへ戻る(1880年 - 1916年)」の解説

ウィーンからブルノ戻ったズデンカ婚約し1881年7月13日結婚。翌1882年8月に娘のオルガ誕生したが、直後に母アマリアとの同居を望むヤナーチェク反発したズテンカが娘を連れて2年実家に戻るなど、当初から夫婦関係は不安定であったまた、民族主義者ヤナーチェクは「きわめてドイツ的」なズデンカ親族当惑覚えていた。ヤナーチェクのもとへ戻ったズテンカは長男ヴラディミール出産したヴラディミール猩紅熱にかかり、1890年11月2歳半で死去したヴラディミール死により、結婚同居関係こそ解消されなかったものの、ヤナーチェク夫妻結婚生活事実上破綻した。なお、ズデンカヤナーチェク死後ヤナーチェクとの生活」と言う回想録を遺し、2人の関係について率直に語っている。 1882年9月ヤナーチェクブルノオルガン学校現在のヤナーチェク音楽院)を設立した。この学校ではヤナーチェクが自ら音楽理論教えたほか、義父となったエミリアン・シュルツが心理学教えた学校教育課程3年間で、目的は「教会音楽技能の質を高めること」であった。これについてイーアン・ホースブルグは、「プラハ・オルガン学校規則手本としていたことは明らか」としている。 同じく1882年9月、ブルノ・クラブ合唱協会運営の「若い歌手ヴァイオリニストのための学校」がヤナーチェク計画に基づき設立されると、その責任者就任したアウグスティノ会修道院聖歌隊指揮者にも復帰し、さらに1884年11月音楽雑誌『ブデブニー・リスティ』を創刊編集者務めたヤナーチェクはブルノ・クラブ合唱協会内部から批判浴び1889年以降聖歌隊指揮者と「若い歌手ヴァイオリニストのための学校」の運営責任者から退いた。この時期ヤナーチェク多く仕事夫婦間軋轢抱え1881年から1888年にかけて作曲したのは『四つ男声合唱曲』などいくつかの合唱曲のみである。。ユリウス・ゼイエルの戯曲原作とするオペラシャールカ』の作曲にも取り掛かったが、ゼイエルから詞の使用許可を得ることができず、とん挫した。『シャールカ』が完成したのはゼイエルが1901年死去しその作品がチェコ・アカデミーに遺贈され後のことである。 1886年ヤナーチェク民俗音楽研究していた民俗学者フランティシェク・バルトシュ親交深めバルトシュ協力して民俗音楽民俗舞踊収集分析作業を行うようになった作業進める中でヤナーチェク民俗音楽技法魅せられていき、民俗音楽採集することにとどまらず編集刊行しさらには自らの器楽作品活用するようになったヤナーチェクモラヴィア民謡にとくに強い関心抱いた内藤久子は、ヤナーチェク民謡を「民衆の生を包みこむ、まさに生きた歌」ととらえ、芸術音楽が「唯一民謡から発展する」ことを確信していたと主張している。19世紀末から20世紀初頭にかけ、ヤナーチェク作曲家としてよりも民俗音楽学者として名が通っていたといわれる1889年から1890年にかけて作曲された『ラシュスコ舞曲』は、編曲採集除き民俗音楽影響うかがえる初の作品とされる。イーアン・ホースブルグは『ラシュスコ舞曲』について、以下のように評している。「特色重要性は、いくら強調してもしすぎることはない。この比較初期の作品においてヤナーチェクは、のちの作品発展させてゆく旋律リズム創意を身につけていたことをすでに示していた」。1891年にはオペラ物語の始まり』が完成。この作品モラヴィア人モラヴィア民俗的資料基づいて作曲した初のオペラであった。イーアン・ホースブルグは「『物語の始まり』の重要性は、「その質がどうあれ、ここでヤナーチェク音楽の点でも題材の点でも『シャールカ』のロマン主義断固として放棄したことである」と評している。音楽学者内藤久子は、ヤナーチェクこの頃から固有の語法確立していったと考察している。 1891年を境に、ヤナーチェク民俗音楽旋律作品中直接用い手法用いなくなった。イーアン・ホースブルグによると、1894年完成序曲嫉妬』、1896年完成宗教曲『主よ、我らあわれみたまえ』、1898年完成カンタータ『アマールス』、1901年完成宗教曲主の祈り』といった作品そのような傾向がはっきりと認められ1903年完成オペライェヌーファ』へと繋がる。『イェヌーファ』はガブリエラ・プライソヴァーによる戯曲『彼女の養女』の翻案を基にした作品で、この戯曲モラヴィア舞台とし、さらにモラヴィア方言書かれている点に特徴があり、ヤナーチェクが独自の語法確立した作品として知られるヤナーチェク1894年から『イェヌーファ』の制作とりかかっていた。『イェヌーファ』は子供死にまつわる悲劇描いた作品であるが、完成直前ヤナーチェク実際に娘のオルガを病で失っている。死の間際願いは『イェヌーファ』の全曲演奏聴きたいというもので、願い叶えられ5日後にオルガ死去したヤナーチェクプラハでの初演望んだ果たせず、1904年1月ブルノ仮設劇場上演された。地元での評価極めて高かったが、「プラハ批評家たちはほとんど公然と敵意示した」。イーアン・ホースブルグは当時ヤナーチェクについて、「プラハにおいては、彼はいくぶん冷やかに作曲家とみられていたが、それよりもわずかに敬意をこめて民俗学者考えられていたのだった」、「オペラ劇場コンサートホールの手ごわい競争者というよりも、民俗学者として知識を身につけている二流地方作曲家であるという見方プラハではなおも一般的であった」と評している。 『イェヌーファ』の完成から数か月ヤナーチェクオペラ運命』の制作乗り出し半年完成させた。イーアン・ホースブルグによるとこの作品は「然るべき方向進めることができなかった失敗作であった台本書き直し模索するなど上演躊躇するうちに第一次世界大戦勃発して上演不可能となり、没後30年にあたる1958年初め舞台で上演された。1906年から1909年にかけ、ヤナーチェクモラヴィア教員合唱団のために3つの男声合唱曲(『ハルファール先生』、『マルイチカ・マグドーノワ』、『7万年』)を作曲しており、これらはヤナーチェク男性合唱曲の「頂点極めた傑作」と評されている。 1904年9月ヤナーチェク王立師範学校教員辞職した1904年ワルシャワ音楽院院長就任打診される。親露家のヤナーチェクはこの話に前向きであったが、立ち消えとなった1905年10月1日ブルノチェコ人のための大学創立要求するデモ軍隊衝突し一人労働者死亡する事件が起こると、ヤナーチェク猛烈に怒りピアノソナタ1905年10月1日 街頭にて」』を作曲した

※この「再びブルノへ戻る(1880年 - 1916年)」の解説は、「レオシュ・ヤナーチェク」の解説の一部です。
「再びブルノへ戻る(1880年 - 1916年)」を含む「レオシュ・ヤナーチェク」の記事については、「レオシュ・ヤナーチェク」の概要を参照ください。

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