病気と日本への専念
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 01:44 UTC 版)
昭和44年(1969年)末に、心臓の調子が思わしくなくフランスでの契約を更改せず帰国、日本での歌手活動に専念。昭和47年(1972年)春に、日本での契約を終えフリーになっていたこともあり、再びパリへ行った。フランスでの歌手活動を始めたが、神経性狭心症で倒れ、無念の帰国となった。以後、約1年半に渡って、千葉県館山での療養生活を送った。昭和48年(1973年)末から歌の仕事を徐々に再開。俳優の仕事は一切断り、歌手業に専念した。昭和49年(1974年)には「再起リサイタル」として、自身の憧れであった帝国劇場でおこない大盛況を収めた。以後、帝劇では五年連続でリサイタルをおこない、いずれも大盛況を収めた。 昭和52年(1977年)から昭和61年(1986年)まで日本歌手協会理事を務めた。昭和57年(1982年)、国立劇場でポピュラー歌手初のワンマンショウを開催した。昭和62年(1987年)にも大劇場でリサイタルをおこなった。昭和60年(1985年)、63年(1988年)と心筋梗塞で倒れ大手術を受けるも奇跡的に回復し復帰した。この頃から平成5年(1993年)頃まで、淡谷のり子とジョイントショーを度々開催した。
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