病気と株式入門
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 16:20 UTC 版)
北炭に勤めていた1894年(明治27年)夏、会社が石炭運搬のため購入した船舶の検査を横浜で行っていた際、そこで喀血してしまう。結核と診察され、諭吉が関与していた北里柴三郎の病院「養生園」に入院することとなった。入院生活中、薬の飲みすぎで胃腸を悪くし衰弱したので、やがて神奈川県の大磯へと移り、東京の忙しい生活を離れて静養するばかりの日々を過ごした。 結核を患い静養を余儀なくされたことが桃介が株式投資を始める契機であった。自身が後に語るところによれば、養家の世話になってもよい家族の分は別として、自分の生活費が尽きてしまうのが心配であった上に、日々退屈であったので、病床でも何かできることはないかと考えて株式投資を思い立ったという。これまで倹約していた上に三田の諭吉本邸に附属する家に住んでおり家賃がなかったことから当時すでに3000円の貯金があり、ここから1000円を割き資本として投資を始めた。当時は日清戦争が終戦を迎える頃で、初心者でも買えば必ず利益があがる時期であった。 1年ほど経って健康を回復したので仕事に復帰しようと思い立ち、1895年(明治28年)12月仲買に命じて買い玉の大阪鉄道株などを清算してみると、約10万円の利益が手元に残った。一財産ができ長期の療養生活で健康も回復したため国内各地の温泉・海水浴場を巡る旅行に出かける。1895年10月18日付で北炭を退社していたが、翌1896年(明治29年)には元上司井上角五郎の大陸出張に同伴して上海・香港まで同伴した。1897年(明治30年)11月には福澤家の厳島旅行に随行する。諭吉には株式投資のことを内密にしていたため旅行中には相場の確認さえできず、旅行から帰ってみるとそれまでの利益の半分が消えていたという。 療養中にあたる1895年秋、家業を継ぐため郷里の九州へ帰っていた松永安左エ門が慶應義塾に復学した。その頃桃介は諭吉の元におり、この後輩松永と懇意になった。松永が法律科を出る際には桃介が相談に乗り、日本銀行(総裁は慶應義塾出身の山本達雄)への入行を斡旋している。
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