病気と早死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/26 01:38 UTC 版)
「ジョーン・ビーチャム・プロクター」の記事における「病気と早死」の解説
成人になってからも慢性的な病気に苦しんでいたジョーンは、何度か外科手術を受けた。彼女は大きな決意とユーモアにあふれた人物であったが、その業績の全ては絶え間ない痛みを背景に成し遂げられたものであった。1928年、ロンドン動物園での5年間の集中的な活動の後、深刻な病気により業務ができなくなったため、ジョーンはロンドン動物園での職から離れることを決めた。第11代ベッドフォード公爵である動物学会会長ハーブランド・ラッセルは、彼女による辞任の受け入れを拒否した。 1928年、ピーター・チャルマーズ・ミッチェルはホイップスネイドで計画中であった新しい動物公園の計画をジョーンに手伝わせ、病気からの回復期間はジョーンをホールファームに滞在させた。毎朝ホールファームからダウンズの端までロバかポニーに乗った。ジョーンが通っていた道は現在もホイップスネイド野生動物園内に残されており、彼女を記念して「ミス・ジョーンの乗馬道」と名付けられた。 亡くなる前の数年間、ジョーンは潜在的に危険な大型動物と関わっていた。逃亡したヒグマとホイップスネイドで遭遇した彼女は、蜂蜜で誘惑してトイレに閉じ込めて捕らえた。亡くなる前には電動車椅子でロンドン動物園の敷地内を歩き回ることしかできなかったが、それでもなお、紐でつないだ体長3メートルのコモドオオトカゲをしばしば連れていた。 重症ではあったものの、断続的に働き続け、水彩画を描き、マンチェスター・ガーディアンへの執筆を計画していた。1931年9月20日、ジョーンはロンドンNW1、セント・マークス広場のセント・マークス・ハウスにある自宅にて亡くなった。
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