19世紀から20世紀半ばの日本
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/04 21:54 UTC 版)
「残飯」の記事における「19世紀から20世紀半ばの日本」の解説
日本では明治時代に、軍隊から出る残飯を安く買い、都市の貧民に販売する残飯屋という業者が登場した。東京では、残飯をそのまま売る店もあったが、醤油や汁がしみこんだ米飯を水で洗い、笊にあげて水を切るところもあった。残飯屋では味噌汁の残りを残汁、その他のおかずの残りを残菜と呼び、それぞれ適当に値を付けた。量的に少ないが工場、料理屋からの残飯、監獄のまずい麦飯の残りも出て売られた。残飯屋でも引き取らないような腐りかけの残飯は、豚の餌や肥料として引き取られた。安価であったが需要を満たすには量が足りず、たちまち売り切れるのを常とした。1895年、1896年頃の東京で上等の米飯が1銭で4椀、焦飯が1銭で5椀。1912年にはまぜものなしの飯が1杯3銭した。下等の食事ではあるが、購買者の都市の貧民は、残飯を外国米より上と見ていた。インディカ米の食味の問題もあるが、その日の稼ぎをその日の食費に回し、道具や燃料・時間に事欠く人には、保存がきく米よりも調理済みの飯が好まれたのである。 大阪では、軍隊、料理屋のほかに、汽船から出る残飯が残飯屋で売られた。監獄の残飯は豚の食糧と肥料になった。残飯を煮て雑炊屋を営む者もあった。米飯の価格は、1895・6年頃の東京の軍隊から出る飯が1貫目 (3.75kg) あたり5、6銭なのに対し、1902年頃の大阪では9銭した。同じく料理屋の飯は10から11銭、汽船のが12銭くらいであった。 仙台では、1876年(明治9年)頃から軍隊の払い下げを受けて販売する店が現れ、1907年頃に5軒、1912年頃に8軒と推移した。日露戦争後、戦傷で身体不自由になった廃兵を雇用するために創設された仙台廃兵館は、軍隊からの残飯の一部の払い下げを受けて、その販売や、残飯を利用した畜産を行なった。 金沢、熊本など他都市にも残飯屋があった。 敗戦後は解体された軍に替わり、進駐軍の残飯を再利用した残飯シチューが闇市で人気を集めた。 日本から残飯屋が消えた時期ははっきりしないが、東京には第二次世界大戦の直後まで存在したという。現代では、整形不良などのわけあり食品や、賞味期限・消費期限が近づいた食品を生活困窮者などに回すフードバンクという活動があるが、残飯を回しているわけではない。
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