19世紀から現代まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 05:02 UTC 版)
「リスボンの歴史」の記事における「19世紀から現代まで」の解説
19世紀の最初の年、ポルトガルはナポレオン・ボナパルトの軍隊に攻め込まれ、マリア1世とジョアン6世は一時的にブラジルに逃れることを余儀なくされた。新しい王がリスボンに戻るころには、多くの建物や資産は侵略者に略奪されるか破壊された。19世紀、リベラルな動きは都市の景色に新たな変化をもたらした。主要な地区であるバイシャやシアード地区ではタバコ店やカフェ、書店、クラブ、劇場、店舗などが急増した。商工業の発展は都市の発展を決定づけ、リベルダーデ大通りは北側に伸び、通り自体はテージョ川から続いている。リスボンは1908年のカルロス1世の暗殺の場所で、これにより2年後に共和国が成立する。 リスボンでは数世紀の休止ののち、1911年に大学が再び設立され、以前の専門学校やほかの大学でない高等教育の学校が改革・統合された。第二次世界大戦中、リスボンはわずかしかなかった中立のヨーロッパの大西洋側の港で、アメリカへ向かう難民にとっては主要な玄関口で、スパイにとっては避難場所であった。10万人を超える難民がナチス・ドイツからリスボンを経由して逃れることができた。 エスタド・ノヴォ統治期(1926 - 1974)、リスボンは膨張しナショナリストやモニュメント的な計画により国内のほかの地域ではコストが嵩んだ。新しい住宅や公共の開発が建設され、ベレン地区では1940年のポルトガル博のために変えられ、人口増加により外周に沿って新しい住地区が現れた。20世紀にはリスボンは3度の革命が起こっている。最初は1910年10月5日革命で、これによりポルトガルの君主制が終わり、非常に不安定で汚職の多いポルトガル第一共和政が成立した。1926年5月28日クーデターにより第一共和政は終わりを告げ、独裁ながら安定したエスタド・ノヴォまたはポルトガル第二共和政が統治することになった。最後の革命は1974年4月25日に起こったカーネーション革命で、右翼のエスタド・ノヴォは終わり、改革が行われ現在のポルトガル第三共和政となった。 1990年代、多くの地区は改修され歴史的な地区では近代化の計画が制定された。いくつかの地区では建築様式や遺産となる建物の再取得、テージョ川の北側周辺ではレジャーや住宅などに用途変更、ヴァスコ・ダ・ガマ橋の建設、市の東側の地区ではリスボン国際博覧会のために用途の変更などが行われ、博覧会はヴァスコ・ダ・ガマがインドに向けての航海から500年を記念して開催されている。1988年に火災により多くのシアード地区の18世紀のポンバル様式が焼失した。一連の修復により地区は以前の姿を取り戻し、高水準のショッピング地区になっている。 リスボン戦略(英語版)は欧州連合の経済に新しい活力を与えるための欧州連合の協定で、リスボンで2000年3月に調印された。2007年10月にリスボンでは欧州理事会が開催され、欧州連合の新しいガバナンスモデルについて合意に達した。その結果、リスボン条約は2007年12月13日に署名され、2009年12月1日に発行した。
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