19世紀から第一次世界大戦まで
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「フィエーラ・ディ・プリミエーロ」の記事における「19世紀から第一次世界大戦まで」の解説
19世紀初頭、フランス帝国のナポレオン・ボナパルトはティロルを征服した。1807年、プリミエーロはティロルの他の地域とともに、フランスの同盟国であるバイエルン王国に割譲された。しかし、1809年3月にヴァル・ディ・フィエンメで発生した反ナポレオン蜂起はティロル全域に波及(it:Insorgenza tirolese)。プリミエーロでも、フィエーラの町長アンジェロ・ミケーレ・ネグレッリ(Angelo Michele Negrelli)らが先頭に立って反乱を組織した。この際、アンジェロ・ミケーレの娘で18歳のジュゼッピーナ・ネグレッリ(イタリア語版)は男装して狙撃兵として活躍したという。 この反乱を受けてバイエルンは当地の支配を断念、ナポレオンのイタリア王国の領土に編入され、ピアーヴェ県(it:Dipartimento della Piave)の一部となった。 ウィーン会議後、プリミエーロは再びオーストリア帝国領に戻った。この町出身のアロイス(ルイジ)・ネグレッリ(イタリア語版)(ジュゼッピーナの弟)は、土木技術者としてオーストリア帝国各地で鉄道・道路・橋梁・運河の設計に当たった人物であり、スエズ運河を設計したことで知られる。 19世紀の終わりまでに、鉄鉱山も閉鎖され、谷からは多くの住民が流出した。1882年には水害に見舞われ、また1902年には町の人口が集中していた Rivetta 地区(町の中央部から聖母被昇天教会に至る一帯)で大規模な火災が発生した。 一方で20世紀初頭に、プリミエーロ地方は観光業に活路を見出すことになる。フィエーラは、サン・マルティーノ・ディ・カストロッツァ(英語版)とともに、この地方で最も早くホテルが営業を開始した土地である。 第一次世界大戦では、この町も軍事作戦の影響を受けた。
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19世紀から第一次世界大戦まで
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「ベルマレット」の記事における「19世紀から第一次世界大戦まで」の解説
1802年時点では、ベルマレットは1軒のスレート屋根の家と数軒の茅葺屋根の家から成る小さな村であった。 1820年に、エリスにおける最初の郵便局がベルマレットに開設され、1822年に、沿岸警備隊の基地が造られた。ウィリアム・ヘンリー・カーターは、町の創始者であるアーサー・シェーンの娘と結婚し、町の開発計画を立て始めたときに、エリスにおけるシェーンが保有する広大な土地を相続していた。ベルマレットとカスルバーを結ぶ新しい道路が敷設され、1824年に完成した。1826年には、大型の波止場が700 ポンドで建設され、カーターはこの内300 ポンドを負担し、残りの内300 ポンドは地元の漁業協同組合が負担した。 1829年に、エリスにおける道路の技師であったアレクサンダー・ニモは「ベルマレットの進歩は驚くべきことだ。この場所はたった4年前に始まったのにも関わらず、今ではおよそ70軒の立派な家で町が構成されている他、5隻の船が穀物を積んで保管し、帯鋼や石炭、蒸留酒、ビール、ワインを輸入している。イギリスの製品や茶、砂糖が売られ、水産物が市場に流通した。」と記した。 1831年時点でベルマレットの人口は585人であった。1832年にカトリック教会のチャペルが300 ポンドで建造された。1833年には、毎週法廷が開かれる裁判所が200 ポンドで建設され、町が急速に発展していることが示された。1830年代に町を訪問したシーザー・オトウェイはベルマレットを「アイルランドで最も若い町であり、若い全てのものと同様、比較的新鮮で公平である。町には数軒の茅葺小屋もあるが、小さな広場から伸びる、適度な大きさのスレートの家が並ぶ小さな通りや市場で構成されている。店には生活必需品だけでなく、快適性や利便性を高める物品も取り揃えていた。建設は進行中であり、推測が進む。」と評した。東のバリーキャッスル(英語版)へ向かう道路と、南のニューポート(英語版)へ向かう道路の2本が新たに敷設された。これにより、この地域からイングランドへの食料品の輸出が始まった。1843年にはプロテスタント教会が建設された。1845年には、アーサー・シェーンによって造られた運河を修復する作業が開始されたが、ジャガイモ飢饉の影響により、完了は1851年まで遅れた。飢饉真っ只中の1846年と1847年の間に、歩道が整備され、旗が立てられた。 19世紀後半には、メイヨー県全体で反乱が発生した。1881年11月には、2人の令状送達者を護衛するために100人以上の警察官が動員され、石や棒を投げつける暴徒に直面した。警察官は暴徒を逮捕するために発砲したため、多くの負傷者が出た。警察は20人を逮捕した。 現在病院が建っている敷地に救貧院が建設され、飢饉で飢えた人々が救貧院へと向かった。飢饉の最中に、3,000人がベルマレットの救貧院に収容されていたと記録されている。ベルマレット周辺の地域は飢饉の影響を強く受け、その後100年の間、多くの住民がアメリカ合衆国やイギリスへと移住した。19世紀後半を通じて、ベルマレットとエリス地域を結ぶ鉄道の開通に関して多くの案が提案された。その内3つのルートが調査され、議論された。 第1ルート:バリナ(英語版) - バリーキャッスル(英語版) - ベルマレット 第2ルート:ニューポート(英語版) - マララニー(英語版) - ベルマレット 第3ルート:バリナ - クロスモリーナ(英語版) - ベルマレット 沿線となる予定の地域に住む住民は、自身の住む地域に鉄道が通るよう働きかけた。しかし、ベルマレットの商人は、鉄道の開業は自身らに悪影響を及ぼし、バリナがより国民の手が届きやすい地域になるのではないかと疑い、恐れた。その結果、大西洋を横断する輸送に役立つはずであった、ブラックソッド(マレット半島の南端に位置する町)への鉄道敷設計画は延期された。その後も多くの人が当局に鉄道敷設を要望し、この鉄道計画がロンドンとカナダやアメリカ間の通信路を改善することが期待されたため、第一次世界大戦後期に勢いを増した。しかし、終戦後の1918年には敷設を希望する運動は終了した。1920年代初頭に、スライゴ・スチーム・ナビゲーション・カンパニーはベルマレット・スライゴ・リヴァプール間を毎週運行していた。
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19世紀から第一次世界大戦まで
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「トリエステ」の記事における「19世紀から第一次世界大戦まで」の解説
ナポレオン戦争に伴い、トリエステは「帝国自由都市」(Reichsunmittelbare Stadt Triest)の繁栄を続けた。そしてキュステンラント(Küstenland)と呼ばれるオーストリア帝国直轄領の首都となった。 主要なオーストリアの貿易港・造船中心地としての役割は、後の1836年に船舶会社エスターライヒャー・ロイト(Österreichischer Lloyd、現在はイタリア・マリッティマ)が商業用路線の開設したことで強調された。ロイトはグランデ広場の角に本社を置いた。1913年からロイトは合計236,000トンの62船舶からなる船団を所有していた。 オーストリア=ハンガリー帝国海軍も、トリエステの造船施設を使用し、基地を置いた。帝国初の主要幹線鉄道、ウィーン=トリエステ間のオーストリア南部鉄道が1857年に完成し、貿易のための価値ある資産そして石炭の供給に利用された。1916年時点で、弩級戦艦を収容可能な造船ドックが2つあった。 20世紀初頭、トリエステはジェームズ・ジョイス、イタロ・ズヴェーヴォ、イヴァン・カンカル、ドラゴティン・ケッテ、ウンベルト・サーバといった芸術家たちがしばしば集まる、活発な国際都市となった。市はオーストリア領リヴィエラ(Österreichische Riviera)の一部で、中央ヨーロッパに属していた。テルジェスティーノ(Tergestino)と呼ばれる特殊なフリウリ語が19世紀初頭まで話され、しだいにトリエステ方言(ヴェネツィア方言のひとつ)とその他言語(イタリア語、ドイツ語、スロヴェニア語)が勝るようになった。トリエステ方言は人口の大部分が話し、ドイツ語はオーストリア官僚政治の言語、そしてスロヴェニア語は周辺の村落で用いられた。今日、いまだウィーン風の建築と、ウィーン風のコーヒー・ハウスがトリエステの街頭で優勢である。
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