1988年死刑確定囚(11人)
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事件名(死刑囚名)判決確定日事件発生日備考(執行日など)福岡連続保険金殺人事件(浜田武重) 1988年3月8日 1978年3月(24日 - 25日)1978年7月1日1979年5月9日 1927年(昭和2年)3月10日生まれ。内縁の妻(一審公判中に死亡)と共謀して内縁の妻の子供(当時16歳)を農業用水路で水死に見せかけ殺害するなど、3件の殺人事件を起こして被害者2人の保険金約1,100万円を詐取した。3件中2件の殺人について無罪を主張していたが、1982年3月29日に福岡地裁(秋吉重臣裁判長)で死刑判決を受け、1984年6月19日に福岡高裁(山本茂裁判長)で控訴棄却判決。1988年3月8日に最高裁(伊藤正己裁判長)で上告棄却判決を受け死刑確定。福岡拘置所に収監されていたが、2017年6月26日に所内で死亡(90歳没・当時は確定死刑囚で最高齢)。 北九州市病院長殺害事件 (S) 1988年5月18日 1979年11月4日 - 5日 1946年(昭和21年)10月19日生まれ・釣具店経営。本籍地は福岡県北九州市小倉北区昭和町、住居は同区木町一丁目。北九州市で大病院を経営していた院長を殺害して大金を強奪することを計画し、大金の奪取には失敗したものの、被害者を殺害して死体を切断・遺棄した。1982年3月16日に福岡地裁小倉支部(佐野精孝裁判長)で死刑判決を受け、1984年3月14日に福岡高裁(緒方誠哉裁判長)で控訴棄却判決を受けた。1988年4月15日に最高裁第二小法廷(香川保一裁判長)で上告棄却判決を受ける。判決訂正申立も同年5月17日付の決定[事件番号:昭和63年(み)第4号]で棄却され、翌18日付で死刑が確定。1983年に最高裁で「永山基準」が示されて以降、殺害された被害者が1人の殺人事件で、複数の被告人に死刑判決が言い渡され確定した唯一の事例。1996年7月11日に福岡拘置所で死刑執行(49歳没)。自力で再審請求していたとされるが、詳細は不明。 北九州市病院長殺害事件 (Y) 1988年5月18日 1979年11月4日 - 5日 1952年(昭和27年)9月5日生まれ・スナック経営。本籍地および住居は北九州市戸畑区椎ノ木町。上記Sの共犯(裁判経緯はいずれも同上)。1996年7月11日に福岡拘置所で死刑執行(43歳没)。再審請求準備中だった。 日立女子中学生誘拐殺人事件 (W) 1988年6月3日 1978年10月16日 1939年(昭和14年)3月25日生まれ。1978年10月16日、茨城県日立市久慈町で、下校途中の義妹(金融業などを経営していた男性の娘/当時14歳:市立久慈中学校3年生)を身代金目的で誘拐。被害者にクロロホルムを嗅がせて気絶させ、車内で鼻・首を押さえつけて殺害し、死体を山中に遺棄した上で、家族に身代金3,000万円を要求したが、金を奪うことはできず、韓国へ逃走しようとしたものの、3日後に逮捕された。動機は経営していた鉄工所が、石油ショックで経営難に陥ったことに加え、キーセン旅行に何度も行ったことから、1,400万円の負債を重ねたことだった。第一審・控訴審では捜査段階での「身代金目当て」という主張を翻し、誘拐の事実とわいせつ行為を否認した。1980年2月8日に水戸地裁刑事部(大関隆夫裁判長)で死刑判決を受け、1983年3月15日に東京高裁第6刑事部(菅野英男裁判長)で控訴棄却判決を受けた。上告審ではわいせつ行為を認めた上で、「犯行動機はいたずら目的で、自分に捜査の手が伸びないように電話で金を要求し、身代金目的誘拐を装った。捜査段階で『身代金目当て』と自白したのも、いたずらの事実を隠したかったため」などと主張し、死刑制度の違憲論も訴えて無期懲役への減軽を求めたが、1988年4月28日に最高裁第一小法廷(角田礼次郎裁判長)で上告棄却判決を受けた。判決への訂正申立も、同年6月2日付の決定[事件番号:昭和63年(み)第8号]で棄却され、翌日(6月3日)付で死刑が確定。東京拘置所に収監されていたが、2013年6月上旬にくも膜下出血で倒れ、同月23日夜に病死(74歳没・当時再審請求中)。 群馬連続女性農夫殺害事件 (S) 1988年6月7日 1981年10月2日1982年7月3日 1927年(昭和2年)2月2日生まれ。強盗致傷罪で懲役8年に処せられたほか、強姦致傷、殺人、死体遺棄の罪で無期懲役刑に処された受刑者が、仮釈放中に再犯した事件。群馬県の境町(佐波郡/現:伊勢崎市)および宮城村(勢多郡/現:前橋市)で、女性2人を相次いで殺害。このほか、1947年10月15日に夫婦を殺傷した強盗殺傷事件も自供したが、同事件は既に公訴時効が成立していた。殺人および強姦致傷の罪に問われ、1983年12月26日に前橋地裁(小林宣雄裁判長)で死刑判決を受け、1985年1月17日に東京高裁(小野啓二裁判長)で控訴棄却の判決を受けた。1988年6月20日に最高裁第二小法廷(奥野久之裁判長)で上告棄却判決を受け、判決への訂正申立も同年6月6日付の決定で棄却されたため、翌日(6月7日)付で死刑が確定。1995年12月21日に東京拘置所で死刑執行(68歳没)。 男娼等連続強盗殺人事件 (W) 1988年6月2日 1967年4月24日1967年8月5日1972年4月10日1973年3月20日 1948年(昭和23年)3月17日生まれ。2020年9月27日時点で大阪拘置所に収監中(現在74歳)。以下の事件を起こした(被害者は売春婦3人・男娼1人)。前半2件は少年時代の犯行(少年死刑囚)。1967年(昭和42年)4月24日朝(当時19歳)、愛知県名古屋市中区葉場町の旅館で同宿した女性(当時36歳)を絞殺し、現金35,000円を奪った。 1967年4月10日(当時19歳)、大阪府大阪市西成区のホテルで女性(当時39歳)を絞殺し、現金2,000円を奪った。 1972年(昭和47年)8月5日未明(当時24歳)、大阪市天王寺区茶臼山町で客引きしていた男性(当時26歳)を絞殺し、現金2,000円などを奪った。 1973年(昭和48年)3月20日(当時25歳)、大阪市浪速区のホテルで女性(当時40歳)を絞殺し、がま口(現金640円入り)・腕時計などを奪った。 第一審・大阪地裁(大政正一裁判長)で1975年8月29日に無期懲役判決を受けたが、控訴審・大阪高裁(西村哲夫裁判長)で1978年5月30日に一審破棄・死刑判決。1988年6月2日に最高裁第一小法廷(高島益郎裁判長)で上告棄却判決を受け、死刑が確定。判決への訂正申立も、同年6月27日付の決定で棄却。4件中2件は無実を主張。 神田ビル放火殺人事件 (I) 1988年7月12日 1981年7月6日 1947年(昭和22年)8月23日生まれ。本籍地は東京都三鷹市下連雀六丁目、住居は東京都田無市(現:西東京市)北原二丁目。酒色に溺れて多額の会社資金を使い込んだことから、証拠となる帳簿類を焼却し、会社所有の現金を入手した上で逃走することを計画。深夜、それを実行する過程で、妨げとなった会社上司とビル管理人を殺害するとともに、現金252万円余りを強取してビルの一部を焼燬した。1982年12月7日に東京高裁(大関規雄裁判長)で死刑判決を受け、起訴から1年半後となる1984年3月15日に東京高裁(寺沢栄裁判長)で控訴棄却判決。1988年7月1日に最高裁第二小法廷(奥野久之裁判長)で上告棄却判決を受け、死刑が確定。1996年7月11日に東京拘置所で死刑執行(48歳没)。 夕張保険金殺人事件 (HN) 1988年10月11日 1984年5月5日 1947年(昭和22年)生まれ。下記HYの妻。女性死刑囚としては戦後3人目に処刑された。裁判経緯は夫と同一。1997年8月1日に札幌刑務所札幌拘置支所で死刑執行(51歳没)。 夕張保険金殺人事件 (HY) 1988年10月13日 1984年5月5日 1944年(昭和19年)生まれ。夫婦による犯行で、上記HNの夫。現住建造物等放火・殺人・詐欺罪に問われた。放火を認めた一方で殺意は否認したが、1987年3月9日に妻とともに札幌地裁(鈴木勝利裁判長)で死刑判決を受けた。その後、妻とともに量刑不当を理由に札幌高裁へ控訴していたが、1988年10月11日に2人とも控訴を取り下げ死刑が確定。これは(昭和天皇の容体悪化により)恩赦を期待したものだったが、恩赦はされず、1996年5月には夫だけが控訴取り下げ無効を申し立てたが、札幌高裁・最高裁ともにこれを棄却し、1997年6月までにすべて審理を終えていた。1997年8月1日に札幌刑務所札幌拘置支所で死刑執行(54歳没)。 東京港区・銀座連続強盗殺人事件 (H) 1988年10月17日 1978年5月21日1978年6月10日 社長を務めていた会社の経営に行き詰まり、役員Nとともに金品を奪う目的で銀座のクラブのママなど2人を殺害。1978年7月10日にNとともに逮捕。1980年1月18日に東京地裁(小野幹雄裁判長)で死刑判決を受け、1982年1月21日に東京高裁(市川郁雄裁判長)で控訴棄却判決。恩赦を期待して1988年10月22日付で上告を取り下げ死刑が確定したが、恩赦はされなかった。共犯Nは1990年2月に最高裁で死刑確定。1996年12月20日に東京拘置所で死刑執行(60歳没)。 元昭和石油重役一家殺害事件 (I) 1988年10月22日 1983年1月29日 1984年6月5日に東京地裁(佐藤文哉裁判長)で死刑判決を受け、1985年11月29日に東京高裁(内藤丈夫裁判長)で控訴棄却判決。恩赦を期待したためか1988年10月22日付で上告を取り下げ死刑が確定したが恩赦はされなかった。1996年12月20日に東京拘置所で死刑執行(55歳没)。
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