無期懲役判決
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「岩手県種市町妻子5人殺害事件」の記事における「無期懲役判決」の解説
1990年11月16日に判決公判が開かれ、盛岡地裁刑事部(守屋克彦裁判長)は被告人Kに無期懲役判決を言い渡した。盛岡地裁 (1990) は判決理由で、弁護人の「被告人Kは犯行時、心神耗弱状態だった」とする主張を退け、「殺害動機はかなり短絡的だが、一応了解可能なものだ。犯行を決意した後で多量に日本酒を飲んだという事実が動かし難い以上、複雑酩酊による責任能力の低下を論ずる余地はない。犯行自体に目撃者などの客観的証拠は存在しないが、妻子5人の殺害を決意し、その勢いづけのために酒をラッパ飲みしたことは捜査段階における多数の供述調書などから疑う余地はない。犯行時の合理的・合目的的な行動や、犯行後に事件発覚を防ぐため施錠したことなどから見れば、『妻子5人を殺害する勢いづけのために日本酒を多量に飲み、まだ酔いが回らないうちに一気に犯行を敢行した』と認定でき、殺害行為の実行を容易にするために酒に頼ったに過ぎない。意識障害などの存在も窺えない」として、完全な責任能力の存在を認定した。その上で、量刑については最高裁判所が1983年(昭和58年)に示した死刑選択基準「永山基準」に沿って検討し、「自分が約束を守らずに退職するなど、再燃すべくして再燃した離婚問題を適切に解決しようとせず、自分の行状に対する反省もないままに皆を道連れして死んだほうがましだという動機は極めて身勝手で、同情の余地はない。公判でも、自己の行為を合理化したり、被害者である妻Aの実家側の遺族の被害感情を逆撫でするような供述をしたりしており、彼らのKに対する処罰感情は極めて強い。有期懲役はあまりにも軽すぎ、検察官の死刑求刑も重すぎるとは言えない」と指摘した。しかしその一方で、「本件犯行は、どのような角度からも正当化する余地のない重大な犯罪であるにしても、その本質は、自らの死を決意すると共に家族をも道連れにしようとしたいわば無理心中の事件であり、どちらかといえば、被告人Kの反社会性よりも非社会的な不適応性が表面に浮かび上がる事件だ。通常死刑の対象となることが多い強盗殺人・強姦殺人・誘拐殺人などのように、共同社会に正面から敵対する犯人の強固な犯罪性が示され、一般社会が同種再犯の危険におののくような凶悪な犯罪とは類型を著しく異にするところがあるところは否めない。同じ家族に対する犯罪でも、保険金殺人・異常な性犯罪などのように、一般人に対する犯罪と同様の凶悪性を感じさせる犯行と同視することはできない。この点で、本件に対する社会の処罰感情が、一般の凶悪事案に比して微妙に異なるものがあることは否定できないと思われる。このような犯行に出た遠因である被告人Kの怠惰・粗暴・短絡的で自己中心的な行動傾向が、Kの十全とは言い難い知能水準や性格の偏りという人格面での障害に起因することは否定できないこと、相手の身になっての真の愛情ではなく、自己中心的で身勝手なものではあったにしても、KがKなりに妻子に愛情を注いでいたことは事実と認めざるを得ず、現在ではそのように愛する妻子を自らの手にかけたことについて、それなりの反省の思いと、妻子すべてを失い一人取り残された悲哀の念にさいなまれながら、獄舎において手にかけた妻子の冥福を祈る日々を送っている様子が窺えること、必ずしも勤勉であったとは言い難いにしても、過去においてはそれなりに勤労生活に従事し、前科は罰金刑(道路交通法違反)1件のみで、不良無頼の徒とはいささか異なるところがあること、自首した事案であることなど、Kに有利に汲むべき事情もいくつか認められる」と指摘し、「本件は5人の尊い生命を奪ったという真に重大な事案ではあるが、死刑が究極の刑であることを考えれば、極刑である死刑をもって臨まなければ国民の正義の観念に反することになるとまでは言い難いものがある」と結論づけた。 盛岡地検は同月30日付で、量刑不当を理由に仙台高等裁判所へ控訴し、被告人Kの弁護人(松下壽夫)も同日付で控訴した。
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無期懲役判決
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「永山則夫連続射殺事件」の記事における「無期懲役判決」の解説
1981年8月21日に控訴審判決公判が開かれ、東京高裁第2刑事部(船田三雄裁判長 / 裁判官:櫛淵理・門馬良夫)は第一審・死刑判決を破棄して自判し、被告人・永山を無期懲役に処する判決を言い渡した。東京高裁 (1981) は判決理由で「犯行の凶悪さや被害者の無念などを鑑みれば、原審(東京地裁)が死刑を選択したことも首肯できるが、死刑の運用には慎重な考慮が必要で、仮にある事件について死刑を選択する場合があれば、その事件についてはどの裁判所が審理しても死刑を選択せねばならないほどの情状がある場合でなければならない。立法論として『死刑宣告には裁判官全員一致の意見によるべきものとすべき』という意見があるが、その精神は現行法の運用にあたっても考慮に値する」と指摘した上で、以下のような情状を列挙した。 「本事件は被告人(永山)が少年の時に犯したものである。永山は当時19歳であるため、法律上は死刑を科すことは可能だが、(18歳未満の)少年に対し死刑を科さない少年法(第51条)の精神は年長少年(18歳・19歳)に対し死刑を適用すべきか否かの判断にも生かされなければならない。永山は出生以来(特に、人格形成に最も重要な幼少時 - 少年時にかけて)極めて劣悪な生育環境にあり、精神的な成熟度に関しては実質的に18歳未満の少年とほとんど変わらないだろう。そのような生育史を持つ永山が犯した犯罪の責任を負うことは当然だが、すべての責任を永山だけに負わせ、その生命で償わせることはあまりにも酷だ。国家社会には劣悪な環境にあった永山に対し、早い機会に救助の手を差し伸べる義務があって、国家の福祉政策の貧困も事件の一端である点を考えれば、社会福祉の貧困も永山本人とともに事件の責任を分ち合わなければならない」 「永山は文通で知り合った女性と獄中結婚し、当審で証言した永山の妻も『たとえ許されなくとも被害者遺族の気持ちを慰謝し、永山とともに生涯にわたり贖罪し続けたい』と誓約している。このように誠実な愛情をもって接する人を(おそらくは人生で初めて)身近に得たことにより、永山は当審における被告人質問の際に素直に応答したり、被害者遺族に対し出版された印税を贈ることで慰謝の気持ちを示すなど、心境の変化が著しく表れている。永山による一連の犯行で家族を失った被害者遺族の感情は到底それらによって償えるものではないが、妻による贖罪の行動により、東京事件(被害者・男性A)の遺族を除く3事件の被害者遺族の心情は(第一審当時と比べ)多少なりとも慰謝されているように認められる」 その上で「原判決(第一審判決)当時に存在した永山にとって有利ないし同情すべき事情に加え、以上のような当審で明らかになった永山にとって有利な事情を考慮すれば、現在の永山に対してもなお死刑を適用することは酷に過ぎるため、被害者たちの冥福を祈らせつつ、生涯を贖罪に捧げさせることが相当だ」と結論付けた。 この判決後、それまで毎年3,4件はあった死刑確定の件数は1982年(昭和57年)にゼロ件となり、17件20被告人の死刑事件が判断待ちになったほか、下級審でも一時死刑判決が激減した。
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無期懲役判決
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「三島女子短大生焼殺事件」の記事における「無期懲役判決」の解説
2004年1月15日に判決公判が開かれ、静岡地裁沼津支部(高橋祥子裁判長)は被告人Hを無期懲役に処す判決を言い渡した。同地裁支部は判決理由で、争点となった被告人Hの「火を点けた時、被害者は既に死亡しているかもしれないと思った」とする主張を退け、検察官が主張した通り「犯行の発覚を恐れ、身元がわからないように焼殺した」と事実認定し、確定的な殺意を認定した。その上で情状面について「(殺害方法は)焼殺という極めて異常・残虐なものだ。自己中心的な動機で酌量の余地はない」「被告人Hの人間的な思考に欠けた冷酷な性格による犯行で社会的影響は大きく、矯正教育をしても犯罪性向を改めることは困難である」と指摘したが、他方で「被告人Hが反省の態度を示していること」「犯行に計画性が窺えないこと」「劣悪な環境で育ったこと」などの情状を挙げ、「規範的な人間性がわずかながら残されており、死刑とするにはなお躊躇いがある。終生、贖罪の日々を送らせるのが相当である」と結論付けた。担当した裁判官3人のうち1人は2009年に『読売新聞』(読売新聞社)の取材に対し「公判の途中から死刑求刑を予想し、死刑か無期懲役かを前提に議論した結果、従来の量刑の傾向から見ると、ボーダーラインというよりは無期懲役に近いケースだと思い無期懲役刑を選択したが、被害者感情を重視する世論が高まっている時期だったため、裁判所には判決後に非難の電話が相次いだ」と述べている。 静岡地検沼津支部は量刑不当を理由に2004年1月28日付で東京高等裁判所へ控訴した一方、被告人Hも量刑不当を理由に2004年2月10日までに東京高裁へ控訴した。
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無期懲役判決
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「名古屋市中区栄スナックバー経営者殺害事件」の記事における「無期懲役判決」の解説
2003年5月15日に判決公判が開かれ、名古屋地裁刑事第5部(伊藤新一郎裁判長)は被告人Bに無期懲役判決(求刑:死刑)を言い渡した。 名古屋地裁は判決理由で、被告人Bの犯罪事実を検察側の主張通り「金品を強取する目的で被害者を殺害した」と事実認定し、強盗殺人の犯意を否定した被告人Bの主張を退けた。 その上で、「強盗殺人罪の成立を否定する態度、1983年の殺人前科など、さまざまな情状を吟味すればBは反省・悔悟の情に乏しい。再犯の可能性を否定し難く、極刑適用も考えられる」と断罪した一方で、「Bは入店した当時、無銭飲食をした上で店の売上金などを盗む窃盗目的はあったが、検察側が主張するように当初から強盗殺人の犯意があったわけではなかった」として、犯行の計画性を否定した。 加えて、量刑選択理由で「Bはいったん売上金など金品を盗むことを諦めて逃走しようとしたが失敗し、女性に店の出入り口扉を施錠されたため、『女性を殺害して売上金を奪って逃走するほかない』と心理的に追い詰められた末に犯行に及んだ。現場にあったカラオケのマイクコードで首を絞めた手口からは計画性は認められない」と認定した上で、「命を奪う『究極の刑罰』に決めるには疑いが残る。終生贖罪に当たらせることが相当である」として、検察側の死刑求刑を退けた。
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無期懲役判決
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1982年12月23日に判決公判が開かれ、東京地裁刑事第7部(佐藤文哉裁判長)は東京地検の求刑通り、被告人Kに無期懲役刑を言い渡した。東京地裁 (1982) は判決理由で、「各種証拠(被告人の供述・精神鑑定書など)に加え、見ず知らずの通行人を次々と殺傷した犯行態様に照らせば、被告人Kは犯行当時、幻覚・妄想に悩まされ、『自分を迫害している役人や寿司店・水産屋の人間たちに復讐してやりたい』などの心理状態の下で犯行に及んだことは間違いない」と認定した。しかし、その一方で「その幻覚・妄想は精神分裂病に基づくものではなく、異常性格を基盤とする心因性妄想に、覚醒剤使用の影響が加わって生じたと認めるのが相当だ。事件直前、最後の望みを賭けていた寿司店から不採用を言い渡されたことで犯行を決意したことや、包丁の柄に滑り止めの布を巻き付けるなど、清明な意識の下に周囲の状況に対応しつつ、合理的な行動を取っていた。また『5人殺せば死刑だ』などと発言しているため、犯行の社会的影響・刑事責任の重大さも認識していた。逮捕後も捜査官の取り調べに対し、犯行およびそれに至る経緯についてかなり詳細に供述し、その内容も客観的証拠と矛盾せず、犯行前からの記憶は正確だ」などと指摘し、「被告人は犯行当時、幻覚状態にはあったが、精神分裂病などのように人格の中核まで冒されていたわけではなく、重大犯罪を合法的な方法で回避することのできる力はなお残されていた。つまり、幻覚・妄想は犯行動機の形成に重要な役割を果たしており、事理を弁識し、それに従って行為する能力は著しく制約されていたが、それ以上にその能力を失わせるほどの影響力はなかった」として、弁護人の「心神喪失状態だった」とする主張を退け、検察官の「心神耗弱状態だったが、心神喪失ではない」とする主張を採用した。 量刑理由については、「悪質極まりなく、犯罪史上稀に見る凶悪な犯行だ。無差別大量殺傷事件として、付近の住民に与えた不安・恐怖や社会に与えた衝撃は重大で、被告人Kは前科・前歴を有しているほか、覚醒剤を濫用するなどして自らこのような精神異常を招いた面も否定できず、動機に酌量の余地は乏しい。刑事責任は誠に重大で、精神に異常をきたしていた事実がなければ極刑をもって処断すべき事案だ」と指摘。その上で、「犯行時、被告人は心神耗弱状態にあったため、法律の規定により刑を減軽しなければならない。しかし諸々の情状を鑑みると、幻覚・妄想の形成要因の一つである異常性格には遺伝的負因や生育環境に規定された側面もあること、現在では一応謝罪の意思を表していることなどを斟酌しても、被告人Kは心神耗弱による法律上の減軽をした場合に科すことができる最高刑(無期懲役)を甘受しなければならない」と結論付けた。 なお判決理由の朗読中には、傍聴人が「その通りだ!俺にも聞こえる、電波が!」と叫んで退廷させられた。被告人Kは判決直後、東京拘置所内で接見した主任弁護人・落合長治弁護士に対し、「自分は心神喪失だから無罪が相当」と判決への不満を述べていたが、落合らは控訴を断念させようとして「本来ならば死刑になるべき事件が無期懲役になったのだから、被害者・遺族への贖罪のためにも刑に服すべきだ」と説得し、Kもこの説得を受け入れた。結局、Kは控訴期限の1983年(昭和58年)1月6日までに東京高等裁判所への控訴手続きを取らなかったため、無期懲役判決が確定した。
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無期懲役判決
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「福山市独居老婦人殺害事件」の記事における「無期懲役判決」の解説
1994年9月30日に広島地裁(小西秀宣裁判長)で判決公判が開かれ、同地裁はN・X両被告人にそれぞれ無期懲役判決を言い渡した。広島地裁は量刑理由について「犯行は計画的かつ悪質だが、被告人Nは反省しており更生の可能性がある。被告人Nは先の事件における仮釈放取り消しを含め、最低でも合計30年(=仮釈放取り消しで10年+今回の事件で仮出所の要件を満たすために20年)程度服役することが必要」と述べ、独自・異例の量刑論を展開した。 広島地方検察庁は同年10月11日付で、被告人Nについて量刑不当を理由に広島高等裁判所へ控訴した。また、被告人Xの弁護人も「2度の強盗殺人を犯した被告人Nと同じ無期懲役なのは不当」と量刑不均衡の主張に加え、事実誤認を訴えて広島高裁へ控訴した。
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無期懲役判決
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1997年(平成9年)5月12日に控訴審判決公判が開かれ、東京高裁第11刑事部(中山善房裁判長)は原判決を破棄(自判)し、被告人Oを無期懲役に処す判決を言い渡した。 東京高裁 (1997) は「犯行の残忍さや動機の身勝手さ、被害者遺族の峻烈な処罰感情や、第一審の段階で被告人Oに真摯な反省の情が見られなかったことなどに照らせば、本事件の犯情は極めて悪質で、被告人Oの刑事責任は誠に重大。Oに対し極刑をもって望むことも十分に考えられる事案であるといわなければならない」「被害者に猿轡を噛ませ、両手を縛るなどして自由を奪い、肉体的・精神的に著しい苦痛を与えた上で強姦に及ぶ手口には、被害者を極限まで辱めたることによって、自己の性的欲望を遂げるという残忍・非情にして異常な嗜虐性が看取される。このような変質的で異常な性衝動は極めて強烈で、Oの人格の一部を形成しているものとみられるところである。同種手口による再犯のおそれは高く、矯正は困難だ」と指摘し、死刑を選択した第一審判決についても「首肯できないわけではない」と理解を示した。しかし、その一方で「被告人Oは中学校卒業ごろまで劣悪な生活環境で生育し、それがOの人格形成に深刻な影響を及ぼしたことは否定できない。また、Oは犯行後に精神錯乱状態に陥り、妻Yとともに自殺を図ったが、その点を考慮すればなお規範的な人間性が僅かに残されていたものと見る余地がある」と指摘した上で、「Oは当審(控訴審)で弁護人や中学時代の担任乙との交流を通じ、次第に自身の生き方・考え方に問題があったことを自覚するようになり、被害者への謝罪の念や、犯行への反省の念を深めていることが認められる。それらの点に照らせば、被告人を死刑に処することについては、熟慮してもなお躊躇せざるを得ず、無期懲役に処して終生、被害者Aの冥福を祈らせて贖罪に当たらせることが相当である」と結論づけた。
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無期懲役判決
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「司ちゃん誘拐殺人事件」の記事における「無期懲役判決」の解説
1985年(昭和60年)3月20日に控訴審判決公判が開かれ、東京高裁第3刑事部(鬼塚賢太郎裁判長)は原判決を破棄自判し、被告人Kを無期懲役とする判決を言い渡した。 東京高裁 (1985) は、弁護団の控訴趣意のうち、事実誤認や法令適用の誤り(死刑制度の違憲性)に関する主張は全て退けたが、量刑不当の主張について検討。「犯行動機に酌むべき点はない。犯行態様も残虐かつ凶悪というほかはなく、まさに悪鬼の所業と言っても過言ではない。被害者遺族が極刑を望んでいることも十分に理解できる」「Kに限らず、一般に重大犯罪を敢行した者は、結果の重大さを見て深く悔悟することも少なくないが、その事によって罪責が消滅するあるいは軽減されるものではない。特に本件のような重大犯罪は、環境だけでなく、犯人の人格に深く根ざすところがあることを否定できず、事後の悔悟や、他律的手段による矯正のみに過度な期待をかけ、正義に立脚する応報の見地を没却することは許されない」として、「Kの罪責は誠に重大で、本件についても原判決が、Kの悔悟の情や家庭の状況なども考慮した上で、死刑に処したことは首肯できないものではない」と指摘した。 しかし、Kには前科・前歴がなく、事件前まではそれなりに破綻なく日常生活を営んできた点を挙げた上で、以下のような情状も指摘した。 犯行態様 犯行態様について詳細に検討し、以下のような事情を挙げ、「金員奪取の目的のため、あらかじめ綿密周到な計画を立て、十分な準備をととのえた上、捜査機関の追及をも巧妙にふり切って着々と実行したというような事案、あるいは誘拐に成功するや直ちに被誘拐者を殺害し、足手まといをなくした上でその生存を装い身代金を要求するというような事案とは、悪質さの程度において若干の差異があることも否定できない。」と指摘した。Kは誘拐の対象としてAに目をつけて以降、「Aを誘拐しよう」という意図を秘めながら行動していたものの、Aがスポーツ広場を出ていった後もすぐに追いかけたわけではなく、しばらく広場や近くの神社の境内で休息するなどした挙句、「またAを見つけられたら」という期待を抱きつつも、確たる宛てもなく周囲を車で回っていたところ、偶然Aと出くわし、言葉巧みに誘拐したが、その後も直ちに遠方に走り去ることなく、なお若干の躊躇いを見せていた。その後、身代金要求を開始した後も、2日間にわたりAに危害を加えることなく連れ歩いていた。やがて時間の経過とともにAの殺害を考えたが、すぐにその決意をしたわけではなく、偶然キャンパーに発見されたと思ったことでAを足手まといと考えていたところ、Aが泣き出したことが引き金となって殺害に至った。 捜査の次第でAを救命できた可能性について 「Kは誘拐当時、Aらと長時間接触し、Aの兄ら子供たちや大人にまで車や人相風体を見られており、誘拐後もAを助手席に乗せて甲府市内を連れ歩いていた。もし当初からKが捜査対象に上がっていれば、早期検挙によりAの殺害を未然に防ぎ得たかもしれない。初動捜査がそうならなかったのは、当初K以外の人物 (X) が容疑者であるかのような一見有力な情報がもたらされたためで、やむを得なかったが、いずれにしても、Kが捜査の目をくらまして巧妙に立ち回ったとは言い難い」と判示した。 以上の理由から、「本件につき死刑の選択が許されるのは、本件が殺人罪を含むことによるところ、本件と同種の事案はもとより、かつては死刑選択がむしろ原則とされていた強盗殺人、強姦殺人等の重大な生命侵害事犯に関する近時の量刑の動向が、その当否はともかくとして、死刑選択に慎重の度合いを深めつつあるという現実も、刑事裁判の根本原則のひとつというべき罪刑均衡ないし刑罰の公平の見地から無視するわけにはいかない。そこで、これらの諸点をさきに述べた本件の犯情とあわせて考えるときは、被告人を死刑に処することとした原判決の量刑は、それを真にやむをえないものと断するにはなお若干のためらいがあり、その意味で原審の量刑は重きに失し、維持しがたいものとせざるをえない。」と結論づけた。 裁判長として控訴審判決を言い渡した鬼塚は、退官後にKについて「少しでも酌量の余地があれば、死刑から救ってやりたいと思っていた」と述べている。また、鬼塚は「島田事件(本事件の審理と同時期に再審請求について同高裁で審理されていた冤罪事件)を契機に、確信的な死刑廃止論者になった」と述べているが、その点について言及した安田は、「たまたまこういう裁判官に出会ったことが、無期の決定的な理由になったんだろうなと思っています。」と振り返っている。
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無期懲役判決
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「JT女性社員逆恨み殺人事件」の記事における「無期懲役判決」の解説
1999年5月27日、東京地裁刑事第5部は被告人Mに無期懲役の判決を言い渡した。判決を宣告した裁判官は、山室惠裁判長と、伊藤寿・矢野直邦の両陪席裁判官で、検察官は千葉守・澤田康広の両名が出席した。 同日、山室は主文を後回しにし、以下の判決理由から判決文を朗読したが、これは死刑を回避した判決としては異例の対応だった。 殺意の形成過程に対する判断 弁護人の「Aと対面するまでは殺害を決意していなかったが、Aに包丁を奪われるなどしたことからパニック状態に陥って殺害を決意した」という主張に関しては、出所からわずか2日後に団地でAの居室を探し始めたこと、居室を特定する前に凶器の包丁などを購入していること、犯行直前には包丁の柄に滑り止めのビニールテープを巻きつけるなどしていること、そしてAを待ち伏せた上で、「7年前の事件のことを覚えているか」と言って脅していることなどを理由に退け、「札幌刑務所を出所した時点で被害者に対して確定的な殺意を抱いていた」と認定した。 また、Mの「包丁を持って犯行現場に向かった時点では殺すかどうか五分五分の気持ちであって、被害者の出方次第であり、警察に届け出たことを謝罪すれば殺害するまでのことはなかったし、包丁を抜いたのは被害者を脅すつもりであったからである」という主張については、以下のように指摘した上で、検察官に対する供述内容や、公判でも随所で前件で逮捕された時点からAへの殺意を抱き、それを持続させていたことを認める供述をしている(前述)ことなどを理由に退けた。 被告人自身が公判段階において認めるとおり、犯罪の被害者が警察に届け出たことについて後に犯人に謝罪するという事態は考えにくいことであるし、犯人が包丁を示して脅した上で謝罪を強要し、被害者の対応如何によって殺害するかどうかを決するということは、それ自体、不自然、不合理な内容である。また、前記二のとおり、札幌刑務所を出所した後の被告人の一連の行動は、被害者に対して、確定的な殺意を抱いていたことを強く指し示している上、犯行直前の被告人の被害者に対する言動をみても、被害者の出方次第という留保付きの不確定的な殺意を有するにすぎない者の行動というにはそぐわないものである。加えて、被告人は、公判段階になって突然、犯行直前まで不確定的な殺意しかなかった旨の供述を始めたのであり、このように供述を変遷させた合理的理由を明らかにしていない上、検察官による被告人質問においては、当初から確定的な殺意があったという供述もしていることを併せ考えれば、犯行直前まで不確定的な殺意しかなかったという被告人の公判段階における供述は、信用することができない。 (中略) 被告人は、前件で逮捕された時点で、手段、方法等の具体的な内容は別として、出所後に必ず被害者を殺害しようと決意し、札幌刑務所で服役中も、被害者を殺すことばかり考えていたわけではないにせよ、その決意を持続させ、出所後、凶器を準備したり、被害者宅を突さ止めたりする間に、次第に被害者の殺害計画を具体化し、遂には実行するに至ったものと認めるのが相当である。 — 東京地裁 (1999) :事実認定の補足説明、 そして、情状鑑定における「Mは殺害を逡巡していた」となどいう指摘も退け、「前件で逮捕された時点から被害者の殺害を決意していたものと認めることができる。」と結論づけた。 責任能力に対する判断 弁護人の「Aに包丁を奪われ、右手人差し指を負傷して衝動的に殺害行為におよんだ。殺人は正当防衛・誤想防衛・過剰防衛のいずれかに該当し、Mは当時、Mは心神喪失か心神耗弱の状態だった」という主張も、Mが逃げようとするAを追い掛け、包丁を奪い返して強く突き刺したことや、Aの動きに的確・機敏に反応して殺害行為におよび、包丁を持って現場から逃走するなど、冷静かつ合目的的な行動を取っていたことなどを理由に退けた。 量刑の理由 以下の点から、「本件は誠に悪質な事案であって、被告人の刑事責任は重いというべきであるが、罪刑均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむを得ない事案であるとまでいうことはできず、被告人に対しては無期懲役刑をもって臨むのが相当であると考えられる。」と結論づけた。Mに不利な情状 犯行動機については「脅迫という形による一方的な口止めを被害者との約束と思い込み、警察に届け出るという被害者としての当然の対応を裏切り行為と決め付けて、深く恨み、このような筋違いの恨みを殺意に転じて、実行に及んだのであり、本件殺人の動機はあまりにも理不尽、身勝手、短絡的であって、一点の酌量の余地もない。」と断じ、犯行を決意してから実行に至るまで、執念深くAの居宅を探した点などを挙げた。また犯行態様も、事件前に凶器や、犯行後に居住先を引き払うことの準備をするなど、計画性があることや、相手が7年前の事件の被害者Aであることを確認し、その事件のことを思い出させた上で殺害するという執拗かつ残忍なものであることや、犯行後の情状の悪さ(Aの所持品を殺害現場から盗み、凶器とともにコインロッカーに隠すなど)も指摘した。 その上で、以下のような事情を列挙し、「その刑責は重く、被告人を死刑に処すべきとする検察官の主張は、傾聴に値する。」と判示した。被害者Aには何の落ち度もなく、遺族も極刑を望んでいる一方、Mが今なお遺族に謝罪の手紙を出したり、慰謝の措置を講じたりしていない点 事件の特異性や、事件が社会に与えた不安感・衝撃の大きさ Mが公判で、殺意の発生時期について曖昧な供述をしたり、Aに対する責任転嫁の供述をしたりなど、真摯な反省が認められない点 Mは殺人を含めて3回実刑判決を受けた前科があるにもかかわらず、人命尊重の意識が乏しく、犯罪傾向が深化している点、および前件で服役した際も態度が芳しくなく、捜査段階で更生意欲がないことを自ら認める供述をするなど、矯正可能性が低い点 Mに有利な情状 一方、本件を「永山基準」を示した最高裁判決(1983年7月8日)と照らし合わせ、以下のように同判決以降の裁判例の事案と対比すれば、死刑選択について消極方向に働く事情として「特に重視すべきである」点も列挙した。本事件はあくまで被害者1人に対する殺人・窃盗の事案である 動機は被害者に対する個人的な恨みであり、利欲的動機(保険金・身代金目的の殺人など)に基づくものではない 殺人には計画性があるが、緻密で周到な計画に基づく犯行とは言い難い そして、捜査段階でMが一貫して事実を認めていることに加え、公判でも曖昧な供述をしながらも、大筋では事実を認め、一応は反省や謝罪の言葉を述べていることを挙げた。それらの発言については、前述のような責任転嫁の供述などから「深い自己洞察に基づく真摯な反省を表しているとはいい難いが、被告人の投げやりな性格にもかかわらずこのように述べていることや、被告人質問の最中に時折目を潤ませている様子からすると、表面を取り繕った口先だけのものと断定することはできず、被告人の中に人間性の一端がなお残っていると評価することができる」と指摘した。一方、検察官が「犯罪の被害者保護」の点を強調したことや、Mに殺人前科があることを挙げたことについては「被害者保護の問題は立法や行政上の措置に委ねるのが最も適切であって、本件の量刑判断においてこの点を考慮するにも自ずと限界がある」「〔殺人前科は〕20年以上前に起こした衝動的な単純殺人の事案であって、この点に重きを置くにも限度がある」と指摘した。 判決言い渡し後、傍聴席から「控訴しましょう」という声が上がり、東京地検は量刑不当を理由に、同年6月4日付で東京高等裁判所へ控訴した。山室は後に、本事件の審理にあたり、いずれも東京高裁で無期懲役が言い渡された被害者1人の事件である甲府信金OL誘拐殺人事件や、国立市主婦殺害事件が念頭にあり、陪席裁判官とともに主な死刑判決をすべて読み、合議した上で無期懲役の結論を導いた旨を明かした上で、「同じことをやった者には同じ刑罰を、という公平さを守るしかない。それは、ほかの裁判官でも同じ判断をするだろうかと考えることだ」と述べている。一方、弁護人は「死刑判決を覚悟していた」と振り返っている。
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