映画批評
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/02 15:43 UTC 版)
「ABCアシッド映画館」の記事における「映画批評」の解説
全体的に映画評論としてはネームバリューのある映画であっても、面白く無い作品は面白くない、面白い作品は面白いと、番組独自の率直な評論を行い、リスナーにも分かり易く、笑いを交えた評論(トーク)により映画ファン以外のライト層のリスナーも本番組の意見を参考に映画館に足を運んでいるという便りも寄せられていた。殆ど難癖に近い辛辣な評価や駄作であっても「映画への愛」の一言で一括りにして評論を行っていた。 かつては製作・配給会社や広告代理店、映画館などの業界間に利害関係が生じる媒体においては、興行成績にマイナスとなる映画の酷評は黙殺され、評論に於いても通り一遍の無難な紹介に留まっているものが多く、映画館に足を運ぶ者は良作か佳作か駄作か、入場料金を支払う前に客自身が判断出来る材料に乏しかった。本番組は「駄作なら駄作」と吊るし上げて、前宣伝だけで映画を観るべきか逡巡しているリスナーに警告を送っていた。 結末を明かすような詳細な紹介は業界の慣例上NGとなっており、本番組も基本的にそれに倣って、予告編を含んだ序盤や概要を1本につき10分前後の時間を設けて紹介を行っていた。しかし本編の見所から結末までが予告編において全て語られてしまっている場合や、安直でお約束な伏線と事前に誰でも結末が予想できる定番の結末、途中で物語を覆すような激しく偏差を起こしている強引な場面展開、映画全編に渡り構成・演出が破綻している作品について、紹介する事すら困難な場合は慣例を放棄し、唸りながら場面展開から結末まで紹介する場合があった。それらも踏まえ、正面からの批評の他に、平野がラジオやテレビの番組製作に携わっている事から、作品がどういう位置付けなのかという製作側からの視点や、作品内に込められた隠された意図と下心等を個人的視点と邪推で汲み取り、同時にパーソナリティ個人の道徳観や性倫理、恋愛観を作品と比較、解釈、それら諸々をトークの中に取り入れて評論を行っていた。 また映画紹介だけに留まらず、大作映画を主とした日本における様々な業界を巻き込んだ前宣伝と宣伝展開、観客の反応とリスナー投稿、映画館の入込み情報、クチコミ、映画イベント、映画賞祭の受賞予想の情報も取り上げ。興行収入や収益、観客動員数などの興行面から見た批評や感想も行い「予告編も本編も大差無い」「宣伝の工夫次第で集客出来た良い映画のはずなのに広報が弱い」「ネームバリューの勢いだけで巨額の制作費と広告宣伝費を投じた割には客足が伸びておらず収支に見合っていないのでは」をといった意見や、その逆の賛辞を配給、製作元に対して述べていた。
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映画批評
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「ボズレー・クラウザー」の記事における「映画批評」の解説
1950年代にクラウザーは反共主義運動を主導したジョセフ・マッカーシーと対立した。彼は映画の検閲に反対し、アメリカ映画の製作により大きな社会的責任を見出そうとした。そのために『市民ケーン』、『怒りの葡萄』、『風と共に去りぬ』などの社会的な内容の映画に対しては高い評価を与えた。 また、1950年・1960年代の外国語映画、特にロベルト・ロッセリーニ、ヴィットリオ・デ・シーカ、イングマール・ベルイマン、フェデリコ・フェリーニの作品の熱心な擁護者でもあった。 『ベン・ハー』や『クレオパトラ』のような叙事詩を擁護する一方で、第二次世界大戦の映画『大脱走』は酷評した。『アラビアのロレンス』についても「陰うつな幻滅と政治的騙しを感じさせる」と批評した。 ジョーン・クロフォードに対しては厳しく、彼女の演技について「わざとらしい」「うぬぼれている」「女性らしくない」と酷評している。 1967年公開の映画『俺たちに明日はない』を「茶番と残忍な殺人が混ざっている」「品がなく無意味だ」という風に批判した。大多数の映画評論家が同作をこの年最高の映画だったと評価する中、クラウザーは3度にわたる批判を展開した。彼はこの後にタイムズを去ることを発表した。 タイムズを去った後はコロンビア・ピクチャーズでエグゼクティブ・コンサルタントとして働くようになった。
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