横田支配からの脱出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/06 22:48 UTC 版)
「マキノ映画製作所」の記事における「横田支配からの脱出」の解説
1923年(大正12年)6月1日、先駆的映画監督である牧野省三が設立した。 牧野が1919年(大正8年)に設立した「教育映画」の製作会社「ミカド商会」は、牧野の独立に脅威を感じた横田永之助によって日活に吸収された。牧野もいったん日活の一監督に戻るが、ふたたび1921年(大正10年)に「牧野教育映画製作所」を設立、大活出身の20代の若者たちや国活の人材を得て、さらに俳優・衣笠貞之助を映画監督としてデビューさせ、「教育映画」の枠も取り払った自主製作・自主配給の力をつけ、満を持してこの「マキノ映画製作所」に改組した。牧野は本格的に監督および映画プロデューサーとしての仕事を続行した。また牧野は「マキノ青司」の名も使用した。撮影所は「牧野教育映画製作所」として1921年に京都市北区等持院北町の等持院境内に設立した「等持院撮影所」をひきつづき稼動、配給は「浅草大東京」をトップにひきつづき自主配給を行った。 改組第1回配給作品は、市川幡谷主演の『三好清海』、牧野省三監督の『弥次と北八 第一篇』、そして衣笠貞之助監督の現代劇『二羽の小鳥』の3本立て興行で同年6月1日に封切られた。3か月間フル稼働で毎週2-3本のプログラムを供給していたが、同年9月1日に起きた関東大震災で浅草を中心に興行ラインが壊滅、作品がストップした。日本全国でも9月に作品を供給できたのは松竹蒲田撮影所と帝国キネマ(帝キネ)だけの5本きり、松竹は蒲田から下加茂へと移転すべく建設を開始した。混乱に乗じた日活の横田が、大手他社によびかけ、マキノを中心とした独立プロ排撃の動きに出た。マキノは東京府下豊多摩郡淀橋町角筈成子坂下(現在の新宿区西新宿8丁目)の「成子不二館」をトップに公開するようコンバート、年内をしのぎ、さらに同年11月には「マキノキネマ株式会社」を設立、西陣に直営館マキノキネマをオープン、独自のチェーンを組み始めた。 年末12月31日公開の正月映画として、金森万象監督の『青春の悲歌』を「成子不二館」に、おなじく金森監督の『祇園情話 蕾のまゝ』と後藤秋声監督の『男が妻を選ぶ時』の2本立て番組を復興後の浅草に建った「浅草オペラ館」にきっちり供給した。さらには明けて1924年(大正13年)の正月、1月2日、牧野省三・沼田紅緑監督の『恐怖の夜叉』で復興した「浅草大東京」に復帰した。平行して不二館・オペラ館番組も供給し続けた。同月、日活・松竹・帝キネ・マキノの4社で、検閲の統一や配給制度の確立、引き抜き防止等を目的に「日本映画製作者協会」を設立した。
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