カラー映画時代とは? わかりやすく解説

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カラー映画時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 14:34 UTC 版)

小津安二郎」の記事における「カラー映画時代」の解説

1950年代日本映画界ではカラー化ワイドスクリーン化が進んでいたが、小津トーキーへの移行の時と同じように、新し技術には慎重な姿勢見せたワイドスクリーンについては「何だかあのサイズ郵便箱の中から外をのぞいているような感じゾッとしない」「四畳半に住む日本人の生活を描くには適さない」などと言って導入せず、亡くなるまで従来通りスタンダードサイズ貫いた一方カラーについては自分が望む色彩再現うまくいくかどうか不安に感じていたが、戦後小津作品カメラマン厚田雄春によると、『東京物語』頃からカラーで撮る可能性出ていて、いろいろ研究始めていたという。1958年小津は『彼岸花』を撮るにあたり会社からカラーで撮るよう命じられたため、厚田助言受け入れて色調渋くて小津が好む赤の発色良いアグファカラー(英語版)を採用した。この作品以降全作品をアグファカラーで撮影した小津作品初のカラー映画となった彼岸花』は、大映から山本富士子借りるなどスター並べたのが功を奏してこの年松竹作品興行配収1位となり、小津作品としても過去最高の興行成績記録した1959年2月には映画関係者初め日本芸術院賞受賞したこの年は『お早よう』を撮影したあと、大映から『大根役者』を映画化する話が持ち上がり、これを『浮草』と改題して撮影した1960年には松竹で『秋日和』を撮影したが、主演東宝から原節子司葉子借りてきたため、その代わり東宝で1本作品を撮ることになり、翌1961年東宝系列宝塚映画で『小早川家の秋』を撮影した1962年2月4日最愛の母あさゑが86歳で亡くなったこの年最後監督作品となった秋刀魚の味』を撮影し11月映画人初め日本芸術院会員選出された。1963年には次回作として『大根と人参』の構想進めたが、この脚本小津病気により執筆されることはなく、ついに亡くなるまで製作は実現しなかった。『大根と人参』は小津没後渋谷実構想ノートをもとに映画化し1965年に同じタイトル公開した小津最後の仕事となったのは、日本映画監督協会プロダクション製作するいすゞ自動車宣伝映画私のベレット』(1964年)の脚本監修だった。

※この「カラー映画時代」の解説は、「小津安二郎」の解説の一部です。
「カラー映画時代」を含む「小津安二郎」の記事については、「小津安二郎」の概要を参照ください。

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