カラー映画時代
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1950年代に日本映画界ではカラー化、ワイドスクリーン化が進んでいたが、小津はトーキーへの移行の時と同じように、新しい技術には慎重な姿勢を見せた。ワイドスクリーンについては「何だかあのサイズは郵便箱の中から外をのぞいているような感じでゾッとしない」「四畳半に住む日本人の生活を描くには適さない」などと言って導入せず、亡くなるまで従来通りのスタンダードサイズを貫いた。一方、カラーについては自分が望む色彩の再現がうまくいくかどうか不安に感じていたが、戦後の小津作品のカメラマンの厚田雄春によると、『東京物語』頃からカラーで撮る可能性が出ていて、いろいろ研究を始めていたという。1958年、小津は『彼岸花』を撮るにあたり、会社からカラーで撮るよう命じられたため、厚田の助言を受け入れて、色調が渋くて小津が好む赤の発色が良いアグファカラー(英語版)を採用した。この作品以降は全作品をアグファカラーで撮影した。 小津作品初のカラー映画となった『彼岸花』は、大映から山本富士子を借りるなどスターを並べたのが功を奏して、この年の松竹作品の興行配収1位となり、小津作品としても過去最高の興行成績を記録した。1959年2月には映画関係者で初めて日本芸術院賞を受賞した。この年は『お早よう』を撮影したあと、大映から『大根役者』を映画化する話が持ち上がり、これを『浮草』と改題して撮影した。1960年には松竹で『秋日和』を撮影したが、主演に東宝から原節子と司葉子を借りてきたため、その代わりに東宝で1本作品を撮ることになり、翌1961年に東宝系列の宝塚映画で『小早川家の秋』を撮影した。 1962年2月4日、最愛の母あさゑが86歳で亡くなった。この年に最後の監督作品となった『秋刀魚の味』を撮影し、11月に映画人で初めて日本芸術院会員に選出された。1963年には次回作として『大根と人参』の構想を進めたが、この脚本は小津の病気により執筆されることはなく、ついに亡くなるまで製作は実現しなかった。『大根と人参』は小津没後に渋谷実が構想ノートをもとに映画化し、1965年に同じタイトルで公開した。小津の最後の仕事となったのは、日本映画監督協会プロダクションが製作するいすゞ自動車の宣伝映画『私のベレット』(1964年)の脚本監修だった。
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