カラー放送開始 - 金網デスマッチとは? わかりやすく解説

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カラー放送開始 - 金網デスマッチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 06:40 UTC 版)

国際プロレス」の記事における「カラー放送開始 - 金網デスマッチ」の解説

TBSの『TWWAプロレス中継』におけるカラー放送での実況中継は、すでにカラー放送実施していた日本テレビの『日本プロレス中継のみならず1969年7月始まったNETの『NETワールドプロレスリング』にも先行される形となり、『'70ワールド・チャンピオンシリーズ』中の1970年4月22日カラー化初回4月13日開催され北九州市若松大会録画中継になってようやく開始された他、後楽園ホールにおける興行も、1970年4月16日にようやく初興行が行われた。 その半年後の1970年10月8日、『'70ダイナマイト・シリーズ』大阪府立体育館大会において、日本初金網デスマッチであるラッシャー木村VSドクター・デス戦が、事前に告知されることなく行われたテレビで翌週10月14日録画中継された。 この金網デスマッチ決行され伏線として、同シリーズ目玉選手として招聘予定していたスパイロス・アリオン参加キャンセル問題があった。当時国際プロレスヨーロッパルート加えNWA比肩していたバーン・ガニア率いアメリカメジャー団体AWA提携しネームバリューのある外国人レスラー招聘できる体制整ってきていた。そこで、国際プロレス1970年6月デイリースポーツ協力得て未来日の外国人選手ファン投票をもとに招聘する『あなたがプロモーター』なる企画行い、1位となったアリオン2位ミル・マスカラスを含む投票上位選手招聘計画した。しかし、圧倒的な海外ネットワークを持つ日本プロレスことごとく妨害された。アリオン一度来日合意しシリーズポスター写真掲載されていたにもかかわらず土壇場キャンセルとなったため(アリオンマスカラスは翌1971年2月日本プロレス揃って初来日)、当初予定していたサンダー杉山とのIWA世界ヘビー級王座戦も中止追い込まれた。その代替カードとして浮上したのが、遺恨発生していた木村ドクター・デス決着戦であり、完全決着戦として日本初金網デスマッチ実現することとなったTBSサイドも、『TWWAプロレス中継』の視聴率1970年入ってから低下していたため、視聴率回復を図るため放送したという。関係者急遽アメリカで行われた金網デスマッチ写真参考金網製作したが、余りにも急なことだったため、金網出入口付け忘れてしまったという珍事起きている。 国際プロレスにおける金網デスマッチルール反則攻撃は可能で、ノックアウトまたはギブアップでの決着であり、ノックアウト場合相手ピンフォールして3カウント奪った後、レフェリーがさらに10カウント数え相手ノックダウン状態のままカウント内に立ち上がれなければKO勝ちとなるというボクシング同様のもので、アメリカでは一般的なエスケープ・ルール(金網から脱出した選手勝者となるルール)とは異なっていた。金網デスマッチが行われる大会ポスター通常版の他に、金網デスマッチ開催告知用も用意されていた。 国際プロレスとしては、金網デスマッチ木村VSドクター・デス戦の一回限り考えており、TBSもこの試合のみで金網デスマッチ中継封印した。しかしその後全国プロモーターからは金網デスマッチ開催有無興行収入違ってきていたため、金網デスマッチ興行開催要求され、その要望多かったことからタイトルマッチでも金網使用するうになるなど乱発余儀なくされ、時にはチェーン・デスマッチやインディアン・ストラップ・マッチを併用する場合もあった。その後木村負担をかけすぎないよう、木村以外の選手交代金網デスマッチ出場することになり、その結果マンネリ化により団体の首を絞める結果となってしまうばかりか放送カード自主規制をかけた『TWWAプロレス中継』の低迷遠因ともなった1971年3月2日は、またも日本プロレスとの興行戦争になったが(日本プロレス蔵前国技館国際プロレス東京都体育館)、当初国際プロレスは「マッドドッグ・バション&ブッチャー・バション呼んでビッグマッチを行う」としていただけで公式なカード発表していなかった。一方日本プロレスは、BI砲VSアリオン&マスカラスインターナショナル・タッグ王座戦を行うことを発表前述通りアリオンマスカラス前年国際プロレスが行った未来日外国人レスラーファン投票1位と2位選手であり、国際プロレスは本来招聘するはずだった外国人選手日本プロレス奪われ揚句集客目玉として興行戦争利用されるとなった。そこで、国際プロレスラッシャー木村VSザ・クエッションの金網デスマッチ日本プロレス対抗前年12月12日オックス・ベーカーとの金網デスマッチ左足複雑骨折した木村ギプス装着したまま強行出場したが、「大阪夏の陣」「隅田川決戦同様にまたしても日本プロレス惨敗してしまう(今回国際プロレス先に発表した興行開催合わせ日本プロレス3月3日予定していた日程急遽1日前倒し興行をぶつける形となった)。 木村以外の主力選手金網デスマッチ初戦は、サンダー杉山1971年2月28日岩手県営体育館でのマッドドッグ・バション戦、ストロング小林1971年10月26日千厩でのダニー・リンチ戦、グレート草津1972年6月30日岐阜市民センターでのバロン・シクルナ戦、マイティ井上1973年2月27日愛知県体育館でのホセ・クィンテロ戦、アニマル浜口1973年7月9日大阪府立体育館でのバディ・ウォルフ戦、阿修羅・原1979年4月22日加賀大会でザ・UFOであったまた、国際プロレスの主要タイトル防衛戦における金網デスマッチは、IWA世界ヘビー級王座では1972年1月27日横浜文化体育館での小林VSカーティス・イヤウケア戦、IWA世界タッグ王座では『TWWAプロレス中継打ち切り翌日1974年3月31日釧路市厚生年金体育館での木村&草津VSジム・ブランゼル&ザ・ブルート戦、WWU世界ジュニアヘビー級王座では1979年11月7日弘前における原VSジプシー・ジョー戦において初め行われたIWA世界ミッドヘビー級王座では金網デスマッチ行われなかった)。 1972年に入ると、金網デスマッチが行われた興行は、前述小林VSイヤウケアのように超満員札止め興行もあった。そうした中、全日本プロレス設立したジャイアント馬場国際プロレスに特別参戦する2日前の1972年11月27日、『ビッグ・ウインター・シリーズ』愛知県体育館大会で日本初金網タッグデスマッチ、王者チームディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキー小林&草津挑戦するWWA世界タッグ王座が行われた。日本プロレス同年11月21日愛知県体育館興行行っていたため、名古屋での興行戦争となったが、日本プロレス側の観客動員実数2000人(主催者発表4000人)に対し国際プロレス前売りチケット完売となり(8500人の超満員札止め)、興行面では国際プロレス勝利となった。しかし試合自体は、外国人組が日本人組とレフェリー阿部脩をノックアウトし、彼らをリング残したまま、サブレフェリーの前溝隆男にも暴行加えた上で金網出入口から脱出して控室に戻るという不透明決着となる(結果無効試合となり、王者チーム外国人組がタイトル防衛)。これは、外国人側が前述のノックアウト・ルールを理解せずアメリカで一般的なエスケープ・ルールと誤認していたためであるが、この決着納得しない観客暴動起こすという事態に発展国際プロレス1973年2月27日愛知県体育館入場無料お詫び興行を行うと発表したが、暴動は収まらず、国際プロレス愛知県警察出動要請し機動隊90人が出動する騒ぎとなり、翌日スポーツ紙にも掲載された。なお、小林とリソワスキーは翌11月28日静岡行われたIWA世界ヘビー級王座戦でも金網デスマッチ対戦している(小林&草津VSブルーザー&クラッシャー再戦3日後の11月30日茨城県立スポーツセンター体育館にてWWA世界タッグ選手権IWA世界タッグ選手権とのダブルタイトルマッチとして行われたが、この試合金網デスマッチではなく通常の試合形式行われ12月24日録画中継された)。入場無料お詫び興行予定通り1973年2月27日行われている(1972年11月27日半券所持していた観客のみ入場無料となった当日メイン前述井上VSクィンテロ)。 1973年11月28日横浜文化体育館にて日本初金網インディアン・ストラップ・マッチとして草津VSワフー・マクダニエルが行われた。この際ルールは、相手ノックアウトした後、相手を引きずってリングを2周すれば勝利するというものであったアメリカでは1周ルール一般的)。当日番組収録行われており、井上VSデーブ・ラーセンが12月15日に、小林&木村ジン・アンダーソン&オレイ・アンダーソンミネソタ・レッキング・クルー)が12月22日それぞれ録画中継された。また、1974年6月5日には米沢にて、日本初金網チェーン・デスマッチとして木村セーラー・ホワイトが行われた。 1974年9月に『国際プロレスアワー』としてレギュラー中継再開した東京12チャンネル(現:テレビ東京)では金網デスマッチ放映解禁した東京12チャンネルにおける金網デスマッチ中継初回は、同年7月5日行われた『'74ビッグ・サマー・シリーズ』鹿児島県鹿屋大会木村VSザ・キラー戦で、両者による金網チェーン・デスマッチを7月29日に『月曜スポーツスペシャル』録画中継した。『国際プロレスアワー』は後述通り基本的に録画中継だったため、凶器攻撃金網乱打している最中は「このシーン凄惨なため、放送ご容赦ください」というテロップ観客席映し、そのシーン映さない策が講じられた。その映像カット激し流血を伴う凶器攻撃最中だけで、攻撃終了した後は、おびただしい流血になろうと中継カットすることはなかった。東京12チャンネルにおける金網デスマッチ中継は、レギュラー放送では1980年7月25日札幌中島スポーツセンター行われた井上&浜口VSスパイク・ヒューバー&ロッキー・ブリューワーのIWA世界タッグ王座戦(同年8月25日録画中継)、特番移行後で1981年5月16日後楽園ホール行われたポール・エラリング&テリー・ラザンVS井上&原のIWA世界タッグ王座戦(同年9月16日録画中継)が、それぞれ最後となったが、金網デスマッチ自体崩壊当日まで行われた

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