カラー放送開始 - 金網デスマッチ
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「国際プロレス」の記事における「カラー放送開始 - 金網デスマッチ」の解説
TBSの『TWWAプロレス中継』におけるカラー放送での実況中継は、すでにカラー放送を実施していた日本テレビの『日本プロレス中継』のみならず、1969年7月に始まったNETの『NETワールドプロレスリング』にも先行される形となり、『'70ワールド・チャンピオンシリーズ』中の1970年4月22日(カラー化初回は4月13日に開催された北九州市若松大会の録画中継)になってようやく開始された他、後楽園ホールにおける興行も、1970年4月16日にようやく初興行が行われた。 その半年後の1970年10月8日、『'70ダイナマイト・シリーズ』大阪府立体育館大会において、日本初の金網デスマッチであるラッシャー木村VSドクター・デス戦が、事前に告知されることなく行われた。テレビでは翌週の10月14日に録画中継された。 この金網デスマッチが決行された伏線として、同シリーズの目玉選手として招聘を予定していたスパイロス・アリオンの参加キャンセル問題があった。当時、国際プロレスはヨーロッパのルートに加え、NWAと比肩していたバーン・ガニア率いるアメリカのメジャー団体AWAと提携し、ネームバリューのある外国人レスラーを招聘できる体制が整ってきていた。そこで、国際プロレスは1970年6月にデイリースポーツの協力を得て、未来日の外国人選手をファン投票をもとに招聘する『あなたがプロモーター』なる企画を行い、1位となったアリオンや2位のミル・マスカラスを含む投票上位選手の招聘を計画した。しかし、圧倒的な海外ネットワークを持つ日本プロレスにことごとく妨害された。アリオンも一度は来日に合意し、シリーズのポスターに写真が掲載されていたにもかかわらず土壇場でキャンセルとなったため(アリオンとマスカラスは翌1971年2月、日本プロレスに揃って初来日)、当初予定していたサンダー杉山とのIWA世界ヘビー級王座戦も中止に追い込まれた。その代替カードとして浮上したのが、遺恨が発生していた木村とドクター・デスの決着戦であり、完全決着戦として日本初の金網デスマッチが実現することとなった。TBSサイドも、『TWWAプロレス中継』の視聴率が1970年に入ってから低下していたため、視聴率回復を図るため放送したという。関係者は急遽、アメリカで行われた金網デスマッチの写真を参考に金網を製作したが、余りにも急なことだったため、金網に出入口を付け忘れてしまったという珍事が起きている。 国際プロレスにおける金網デスマッチのルールは反則攻撃は可能で、ノックアウトまたはギブアップでの決着であり、ノックアウトの場合は相手をピンフォールして3カウントを奪った後、レフェリーがさらに10カウントを数え、相手がノックダウン状態のままカウント内に立ち上がれなければKO勝ちとなるというボクシングと同様のもので、アメリカでは一般的なエスケープ・ルール(金網から脱出した選手が勝者となるルール)とは異なっていた。金網デスマッチが行われる大会のポスターは通常版の他に、金網デスマッチ開催告知用も用意されていた。 国際プロレスとしては、金網デスマッチは木村VSドクター・デス戦の一回限りと考えており、TBSもこの試合のみで金網デスマッチの中継を封印した。しかしその後、全国のプロモーターからは金網デスマッチ開催の有無で興行収入が違ってきていたため、金網デスマッチの興行開催を要求され、その要望が多かったことからタイトルマッチでも金網を使用するようになるなど乱発を余儀なくされ、時にはチェーン・デスマッチやインディアン・ストラップ・マッチを併用する場合もあった。その後、木村に負担をかけすぎないよう、木村以外の選手も交代で金網デスマッチに出場することになり、その結果、マンネリ化により団体の首を絞める結果となってしまうばかりか、放送カードに自主規制をかけた『TWWAプロレス中継』の低迷の遠因ともなった。 1971年3月2日は、またも日本プロレスとの興行戦争になったが(日本プロレスは蔵前国技館、国際プロレスは東京都体育館)、当初国際プロレスは「マッドドッグ・バション&ブッチャー・バションを呼んでビッグマッチを行う」としていただけで公式なカードを発表していなかった。一方の日本プロレスは、BI砲VSアリオン&マスカラスのインターナショナル・タッグ王座戦を行うことを発表。前述の通り、アリオンとマスカラスは前年に国際プロレスが行った未来日外国人レスラーのファン投票1位と2位の選手であり、国際プロレスは本来招聘するはずだった外国人選手を日本プロレスに奪われた揚句、集客の目玉として興行戦争に利用される形となった。そこで、国際プロレスはラッシャー木村VSザ・クエッションの金網デスマッチで日本プロレスに対抗、前年12月12日のオックス・ベーカーとの金網デスマッチで左足を複雑骨折した木村はギプスを装着したまま強行出場したが、「大阪夏の陣」「隅田川決戦」同様に、またしても日本プロレスに惨敗してしまう(今回も国際プロレスが先に発表した興行開催に合わせ、日本プロレスが3月3日に予定していた日程を急遽1日前倒し、興行をぶつける形となった)。 木村以外の主力選手の金網デスマッチ初戦は、サンダー杉山が1971年2月28日の岩手県営体育館でのマッドドッグ・バション戦、ストロング小林が1971年10月26日の千厩でのダニー・リンチ戦、グレート草津が1972年6月30日の岐阜市民センターでのバロン・シクルナ戦、マイティ井上が1973年2月27日の愛知県体育館でのホセ・クィンテロ戦、アニマル浜口が1973年7月9日の大阪府立体育館でのバディ・ウォルフ戦、阿修羅・原が1979年4月22日の加賀大会でのザ・UFO戦であった。また、国際プロレスの主要タイトルの防衛戦における金網デスマッチは、IWA世界ヘビー級王座では1972年1月27日の横浜文化体育館での小林VSカーティス・イヤウケア戦、IWA世界タッグ王座では『TWWAプロレス中継』打ち切り翌日の1974年3月31日の釧路市厚生年金体育館での木村&草津VSジム・ブランゼル&ザ・ブルート戦、WWU世界ジュニアヘビー級王座では1979年11月7日の弘前における原VSジプシー・ジョー戦において初めて行われた(IWA世界ミッドヘビー級王座では金網デスマッチは行われなかった)。 1972年に入ると、金網デスマッチが行われた興行は、前述の小林VSイヤウケアのように超満員札止めの興行もあった。そうした中、全日本プロレスを設立したジャイアント馬場が国際プロレスに特別参戦する2日前の1972年11月27日、『ビッグ・ウインター・シリーズ』愛知県体育館大会で日本初の金網タッグデスマッチ、王者チームのディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーに小林&草津が挑戦するWWA世界タッグ王座戦が行われた。日本プロレスは同年11月21日に愛知県体育館で興行を行っていたため、名古屋での興行戦争となったが、日本プロレス側の観客動員が実数2000人(主催者発表は4000人)に対し、国際プロレスの前売りチケットは完売となり(8500人の超満員札止め)、興行面では国際プロレスの勝利となった。しかし試合自体は、外国人組が日本人組とレフェリーの阿部脩をノックアウトし、彼らをリングに残したまま、サブレフェリーの前溝隆男にも暴行を加えた上で金網の出入口から脱出して控室に戻るという不透明決着となる(結果は無効試合となり、王者チームの外国人組がタイトルを防衛)。これは、外国人側が前述のノックアウト・ルールを理解せず、アメリカで一般的なエスケープ・ルールと誤認していたためであるが、この決着に納得しない観客が暴動を起こすという事態に発展。国際プロレスは1973年2月27日に愛知県体育館で入場無料のお詫び興行を行うと発表したが、暴動は収まらず、国際プロレスは愛知県警察に出動を要請し、機動隊約90人が出動する騒ぎとなり、翌日のスポーツ紙にも掲載された。なお、小林とリソワスキーは翌11月28日に静岡で行われたIWA世界ヘビー級王座戦でも金網デスマッチで対戦している(小林&草津VSブルーザー&クラッシャーの再戦は3日後の11月30日、茨城県立スポーツセンター体育館にてWWA世界タッグ選手権とIWA世界タッグ選手権とのダブルタイトルマッチとして行われたが、この試合は金網デスマッチではなく通常の試合形式で行われ、12月24日に録画中継された)。入場無料のお詫び興行も予定通り1973年2月27日に行われている(1972年11月27日の半券を所持していた観客のみ入場無料となった。当日のメインは前述の井上VSクィンテロ)。 1973年11月28日、横浜文化体育館にて日本初の金網インディアン・ストラップ・マッチとして草津VSワフー・マクダニエルが行われた。この際のルールは、相手をノックアウトした後、相手を引きずってリングを2周すれば勝利するというものであった(アメリカでは1周ルールが一般的)。当日は番組収録も行われており、井上VSデーブ・ラーセンが12月15日に、小林&木村対ジン・アンダーソン&オレイ・アンダーソン(ミネソタ・レッキング・クルー)が12月22日にそれぞれ録画中継された。また、1974年6月5日には米沢にて、日本初の金網チェーン・デスマッチとして木村対セーラー・ホワイトが行われた。 1974年9月に『国際プロレスアワー』としてレギュラー中継を再開した東京12チャンネル(現:テレビ東京)では金網デスマッチの放映を解禁した。東京12チャンネルにおける金網デスマッチ中継初回は、同年7月5日に行われた『'74ビッグ・サマー・シリーズ』鹿児島県鹿屋大会の木村VSザ・キラー戦で、両者による金網チェーン・デスマッチを7月29日に『月曜スポーツスペシャル』枠で録画中継した。『国際プロレスアワー』は後述の通り基本的に録画中継だったため、凶器攻撃や金網に乱打している最中は「このシーンは凄惨なため、放送をご容赦ください」というテロップと観客席を映し、そのシーンを映さない策が講じられた。その映像のカットは激しい流血を伴う凶器攻撃の最中だけで、攻撃が終了した後は、おびただしい流血になろうと中継をカットすることはなかった。東京12チャンネルにおける金網デスマッチの中継は、レギュラー放送では1980年7月25日に札幌中島スポーツセンターで行われた井上&浜口VSスパイク・ヒューバー&ロッキー・ブリューワーのIWA世界タッグ王座戦(同年8月25日に録画中継)、特番枠移行後では1981年5月16日に後楽園ホールで行われたポール・エラリング&テリー・ラザンVS井上&原のIWA世界タッグ王座戦(同年9月16日に録画中継)が、それぞれ最後となったが、金網デスマッチ自体は崩壊当日まで行われた。
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