マンネリ化
マンネリ化
マニエリスム
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マニエリスム(伊: Manierismo ; 仏: Maniérisme ; 英: Mannerism)とは、ルネサンス後期の美術で、イタリアを中心にして見られる傾向を指す言葉である。マンネリズムと語源を等しくする[1]。美術史の区分としては、盛期ルネサンスとバロックの合間にあたる。イタリア語の「マニエラ(maniera:手法・様式)」に由来する言葉である[2][3]。ヴァザーリはこれに「自然を凌駕する行動の芸術的手法」という意味を与えた[2]。
概念
成立の経緯
ミケランジェロに代表される盛期ルネサンスの成果は圧倒的であり、芸術は頂点を極め、今や完成されたと考えられた。ミケランジェロの弟子ヴァザーリはミケランジェロの「手法(マニエラ maniera)」を高度の芸術的手法と考え、マニエラを知らない過去の作家に対して、現在の作家が優れていると説いた。 レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロ、ミケランジェロら盛期ルネサンスの巨匠たちは古典的様式を完成させた。これをヴァザーリは普遍的な美の存在を前提とし、「最も美しいものを繋ぎ合わせて可能な限りの美を備えた一つの人体を作る様式」として、「美しい様式(ベルラ・マニエラ)」と定義づけた。
1520年頃から中部イタリアでは前述の巨匠たちの様式の模倣が目的である芸術が出現し、「マニエラ」は芸術作品の主題となった。その結果盛期ルネサンス様式の造形言語の知的再解釈が行われ、盛期ルネサンス様式は極端な強調、歪曲が行われるようになった。一方で古典主義には入れられなかった不合理な諸原理を表現する傾向も表れるようになった[4]。フィレンツェにおけるマニエリスムの発生は、1512年のジュリアーノ・デ・メディチの追放とそれによるメディチ家のフィレンツェへの復帰、それらの社会的な緊張感の発生と芸術家への発注数の増加[5]、ミケランジェロ・ブオナローティとラファエロ・サンティのローマへの移動によって起きたフィレンツェの伝統からの解放をハウザーは挙げている[6]。またこの変化の中でマニエリスム様式の模範を作る重要な役割を果たした芸術家としてハウザーはヤコポ・ダ・ポントルモを示している[6]。
しかし、17世紀のピエトロ・ベッローリはミケランジェロの「マニエラ」の模倣者たちを非難し、やがて型にはまった生気の欠けた作品という評価が支配的となった。この考え方は19世紀まで引き継がれ、マニエリスムは1530年頃からのローマやフィレンツェにおける絵画の衰退を意味する言葉として扱われた[7]。
その後1956年にオランダのアムステルダムにて催された『ヨーロッパ・マニエリスムの勝利』などをきっかけとして[8]、20世紀ドイツにおけるドイツ表現主義や抽象主義の隆盛により[9]、マニエリスムも独立した表現形態であり、抽象的な表現に見るべきものがあるとして再評価されるようになった。
定義
ハンガリーの芸術社会学者であるアーノルド・ハウザーは、自著の中でマニエリスムの定義に関する重要なものとしてウォルター・フリートレンダーの研究に触れている[10]。フリートレンダーはマニエリスムを根本的に反古典主義的なものであると定義し、加えて逆説的な形式でのみその問題を語ることができるものであるとしている[11]。またマニエリスムの研究で知られている美術史家のマックス・ドヴォルシャックはマニエリスムの本質を精神性であるとしており[12]、ハウザーはこれに加えてこれが世界を形作るだけではなく捻じ曲げる要素としての働きをしたとしている[13]。
特徴

マニエリスムは、盛期ルネサンス芸術の明快で調和の取れた表現とも、バロック芸術の動感あふれる表現とも異なった特有の表現として位置づけることができる。
絵画
- 諸原理の抽象化
- 遠近法、短縮法、明暗法などが抽象化されている[4]。
- 巨匠の個人的様式の誇張的模倣
- 歪められた空間
- 消失点の高低を極端に設置した遠近法、奥行きが閉ざされ平面化された空間などが挙げられる[4]

建築
古典主義では同じ大きさの柱を並べるのが一般的であったが、ヴィニョーラは、古典的形態要素を自由に組み合わせ大胆な平面の建物を設計し、パラディオはファサードの列柱の柱を大小混在させた。盛期ルネサンスまでの芸術作品は教会や広場など公共施設に置かれることが多かったが、マニエリスム期の作品の多くは宮廷などの閉じたサークル内で鑑賞された。また様々な寓意をちりばめた理知的、晦渋な作品が好まれた。
その他
元々は16世紀美術に対する概念であるが、現代美術(シュルレアリストの作品など)にマニエリスムと共通する性格を認め(例:ホッケ「迷宮としての世界」)、広義に用いる場合もある。 文学においても、グスタフ・ルネ・ホッケの『文学におけるマニエリスム』が1959年に出版されるなど[15]、美術のみならず影響を及ぼしていることが分かる。
マニエリスム期の作品
マニエリスム手法を採用した作品
脚注
- ^ マンネリズムとは - コトバンク
- ^ a b 美術出版社; 美術出版社編集部; 藤原えりみ; 高階秀爾『西洋美術史: カラー版』(7版)美術出版社、2008年2月10日、93頁。ISBN 4568400643。 NCID BA60025262。
- ^ ヤマザキマリ『ヤマザキマリの偏愛ルネサンス美術論』集英社、2015年、101頁。ISBN 978-4-08-720815-3。
- ^ a b c d Brill, Paul; Goya, Francisco; Greco; 愛知県美術館, 東武美術館, 横浜美術館, 横浜美術館学芸部『バロック・ロココの絵画 : ヴェネツィア派からゴヤまで リール市美術館所蔵』朝日新聞社、1993年、31頁。 NCID BN09889898。
- ^ ハウザー 1990b , pp. 274-275.
- ^ a b ハウザー 1990b , p 275.
- ^ 八代 1965, p. 308.
- ^ 美術検定実行委員会『美術検定過去問題集:四択マークシート』美術出版社、2008年7月、186頁。ISBN 978-4-568-24024-5。 NCID BA88611716。
- ^ 八代 1965, p. 309.
- ^ ハウザー 1990a , p 28.
- ^ ハウザー 1990a , p 31.
- ^ ハウザー 1990a , p 35.
- ^ ハウザー 1990a , p 36.
- ^ “美術用語詳細情報 マニエリスム”. 徳島県立近代美術館 (2006年). 2016年7月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年7月18日閲覧。
- ^ 三宅雅明「詩におけるマニエリスムとT・S・エリオットの詩 : その二」『大阪府立大学紀要(人文・社会科学)』第20巻、大阪府立大学、大阪、1972年3月30日、106頁、ISSN 04734645、NAID 40000306450、2016年7月31日閲覧。
参考文献
- アーノルド・ハウザー 著、若桑みどり 訳『マニエリスム 上巻―ルネサンスの危機と近代芸術の始源』 12巻(8版)、岩崎美術社〈美術名著選書〉、1990年2月10日。ISBN 978-4753410125。
- アーノルド・ハウザー 著、若桑みどり 訳『マニエリスム 中巻―ルネサンスの危機と近代芸術の始源』 13巻(7版)、岩崎美術社〈美術名著選書〉、1990年4月20日。ISBN 978-4753410132。
- 八代修次「ブリューゲルとマニエリスム」『哲學』第46巻、三田哲學會、東京、1965年2月。ISSN 05632099。 NAID 110007353329 。2016年6月12日閲覧。
関連文献
- アンドレ・シャステル 『ローマ劫掠―一五二七年、聖都の悲劇』 越川倫明ほか訳 筑摩書房、2006年。
- 森洋子・若桑みどり編 『マニエリスム 世界美術大全集 西洋編15』 小学館、1996年。
- 若桑みどり 『マニエリスム芸術論』 ちくま学芸文庫、1994年、初版岩崎美術社(岩崎美術選書)。
- マリオ・プラーツ 『官能の庭 マニエリスム・エムブレム・バロック』 若桑みどりほか訳、ありな書房 1992年。
- グスタフ・ルネ・ホッケ 『迷宮としての世界 マニエリスム美術』 種村季弘・矢川澄子訳
美術出版社、初版1966年、新版1987年→岩波文庫全2巻、2010年12月-11年1月。 - グスタフ・ルネ・ホッケ 『文学におけるマニエリスムI.II 言語錬金術ならびに秘教的組み合わせ術』
種村季弘訳、現代思潮社 1971年、新版1977年。 - ワイリー・サイファー 『ルネサンス様式の四段階』 河村錠一郎監訳、河出書房新社、1976年、新版1987年。
- ヴァルター・フリートレンダー 『マニエリスムとバロックの成立』 斎藤稔訳、 岩崎美術社:美術名著選書、1973年。
関連項目
- ルネサンス期のイタリア絵画
- フランチェスコ1世のストゥディオーロ
- 北方マニエリスム
- 反マニエリスム
外部リンク
マンネリ化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/06 20:25 UTC 版)
いわゆるゲーム内容のマンネリ化については各社がゲームハード高性能化を推し進めいていた1990年代後半(据置型ゲーム機第5世代)までよく見られた、高性能さを生かした表現を目玉としたゲーム作品が一定の成熟に達してしまってユーザーを引き付けるインパクトが弱まり、日本のユーザーに飽きられてしまった。 「ゲームの複雑化」でも述べたように、高性能化に伴い開発コストの過多が生じ始め、ソフトメーカーがタイトル数を絞って開発販売するようになり、マニア向け以外にも従来作の続編が増え、その分革新的で冒険的な作品が少なくなり、シリーズのファン以外の消費者に飽きを起こさせた。 ゲームを「遊び」や「お話し」と捉えた場合、遊びの種類やお話を作り上げる才能はコンピュータ・ハードの進化とは全く別の時間軸で形成されるものであり、革新的なハードの登場にみあうコンテンツが用意できない場合、ハードの世代交代の時点で顧客を大量に喪失する可能性がある(乗り換え問題)。 2000年代にはゲームハードの性能が著しく上昇したことでバーチャルリアリティが高度化し現実との差異が縮まったが、そのことで逆に「ゲームらしさ」が減少し、かえって主な顧客であった青少年層の支持を失ったとの指摘もある。ある研究では、子供たちがコンピュータゲームに望むのはリアリティやスリルではなく、それを介して「向こうの人物とコミュニケーションできること」であり、ゲームがリアリティに近寄るほど「怖い」「すごい」といった個人的な体験しか語れず、これは現実場面の体験の特徴であり、他人との話題の共有性が極端に低くなるとの指摘がある。 顧客層の世代交代の観点からは、日本におけるコンピュータゲーム全盛期である1980年代〜1990年代前半の主な顧客が経年によって社会人となり、仕事で時間が無くなった上に、休日はリアルな体験に重きをおいた大人の趣味に時間を費やすようになってゲームをやらなくなった(ニンテンドーDSやWiiの顧客における「回帰ユーザー」の層にあたる)。
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