国定忠次とは? わかりやすく解説

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くにさだ‐ちゅうじ【国定忠次】

読み方:くにさだちゅうじ

[一][1810〜1851]江戸末期侠客上野(こうずけ)の国定の人。本名長岡忠次郎賭場(とば)荒らし関所破りなどの罪で磔(はりつけ)の刑に処せられた。後世講談浪曲芝居などに脚色国定忠治

[二]国定忠治子母沢寛長編歴史小説昭和7年(1932)から昭和8年(1933)にかけて東京日日新聞連載著者による股旅(またたび)物の代表的作品


国定忠次

読み方:クニサダチュウジ(kunisadachuuji)

初演 明治38.5(東京宮戸座)


国定忠次

読み方:クニサダチュウジ(kunisadachuuji)

初演 明治17.7(東京・市座)


国定忠治

(国定忠次 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/23 05:46 UTC 版)

国定 忠治(くにさだ ちゅうじ、忠次とも、文化7年(1810年) - 嘉永3年12月21日1851年1月22日))は、江戸時代後期の侠客である。「国定」は生地である上野国(上州)佐位郡国定村に由来し、本名:長岡忠次郎


注釈

  1. ^ 母は武家出身の貞子(お貞)とされ、幼名は寅次。忠治磔刑後、下野国出流山満願寺に預けられ千乗と名乗った。後、還俗して大谷刑部国次と称し、出流山事件に参加、捕らえられて斬首となった[1]
  2. ^ 羽倉簡堂が著した「赤城録」では「是ニ於テ、義弟義子、曰ク多シ」[2]として日光円蔵ら忠治股肱の子分が『水滸伝』に模して紹介されている。なお、明治時代によく読まれた実録本でも忠治の物語は『嘉永水滸伝 国定忠治実記』などと題されていた。
  3. ^ 羽倉簡堂は「赤城録」でこの時の模様を「義子十八名ヲ擇ビ、各洋制短銃ヲ持チ、倶ニ往ク」[6]と記しており、忠治が「洋制短銃」を携行していたことを伝えている。奇しくもこの年、高島秋帆江川太郎左衛門によってヨーロッパ伝来の小銃がコピー製造されていることが知られているが[7]、忠治がその種のものを入手していたとは考えにくい。伊勢崎市の名主大島儀右衛門宅には「忠次遺愛の拳銃」とされる火縄式の短銃が保存されており[8]、「洋制短銃」とはこの火縄式の短銃を指すものと考えられる。なお、忠治は天保7年に義弟の茅場兆平が殺害された際、子分20名を率いて復讐に向かうが、羽倉簡堂はその模様を「忠治、復讐ノ為、乾児二十名ヲ率イ、火鎗刀矛ヲ持チ」と表記。この「火槍」も「刀矛」も中国で昔使われた武器であることを考えるならば、忠治が所持していたとは考えにくい。
  4. ^ 三室勘助(中嶋勘助、小斉勘助)は上州小保方村三室(佐波郡東村)の出身。中嶋家は東小保方村の名主を務め、忠治一家の浅次郎は勘助の甥にあたる。勘助は檀那寺である西小保方村の長安寺住職憲海や領主久永氏を相手とした訴訟に敗れると天保12年に隣村の八寸村八斉に移住し、関東取締出役の道案内に転身している。
  5. ^ 2007年、新国劇出身の緒形拳も参加して国立劇場で通し上演された際は全四幕七場とされており、「名場面「赤城天神山」をクライマックスに、最後の4幕では陰惨な結末が、ドラマを深める」と説明されていた[24]

出典

  1. ^ 子母沢寛『游侠奇談』民友社、1930年10月、214-218頁。 
  2. ^ 羽倉簡堂 著、羽倉信一郎 編『簡堂遺文』吉川弘文館、1933年5月、86頁。 
  3. ^ 子母沢寛『游侠奇談』民友社、1930年10月、236-238頁。 
  4. ^ 田村栄太郎『やくざ考』雄山閣、1958年10月、152-156頁。 
  5. ^ 高橋敏『国定忠治』岩波新書、2000年8月、74頁。 
  6. ^ 羽倉簡堂 著、羽倉信一郎 編『簡堂遺文』吉川弘文館、1933年5月、89頁。 
  7. ^ 銃(じゅう)とは?”. コトバンク. 2023年6月8日閲覧。
  8. ^ 日本放送協会 編『歴史への招待』 9巻、日本放送協会、1980年11月、180-181頁。 
  9. ^ 高橋 (2000)、p.141
  10. ^ 高橋 (2000)、p.140
  11. ^ a b 高橋 (2000)、p.195
  12. ^ a b 高橋 (2000)、p.196
  13. ^ 高橋 (2000)、p.197
  14. ^ 高橋 (2000)、pp.197 - 198
  15. ^ 高橋 (2000)、p.201
  16. ^ a b c d e 黒崎 2019, p. 37-46.
  17. ^ たばこクロニクル "THE・石黒敬七" コレクション 戦後の日本を笑いの渦に!! Archived 2016年3月3日, at the Wayback Machine.」『たばこジャーナル』日本たばこ産業、2009年9月15日更新、2016年2月26日閲覧。
  18. ^ 萩原 1965, p. 299.
  19. ^ 伊勢崎忠治だんべ会
  20. ^ “170年ぶり和解の手打ち/群馬、国定忠治の子孫ら”. 四国新聞. (2007年6月2日). https://www.shikoku-np.co.jp/national/life_topic/20070602000422 2017年8月24日閲覧。 
  21. ^ 北條秀司 編『行友李風戯曲集』演劇出版社、1987年11月、315頁。 
  22. ^ 大井広介『ちゃんばら芸術史』実業之日本社、1959年3月、25頁。 
  23. ^ 大井広介『ちゃんばら芸術史』実業之日本社、1959年3月、33-36頁。 
  24. ^ 「国定忠治」42年ぶり通し上演”. asahi.com (2007年4月5日). 2023年6月19日閲覧。
  25. ^ 実説国定忠治 雁の群日本映画データベース
  26. ^ 奥野久美子「明治大正期の国定忠治ものー菊池寛「入れ札」を論じるために」[1]




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