国定謙男とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 国定謙男の意味・解説 

国定謙男

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/19 00:24 UTC 版)

国定 謙男
左から国定、緋桜子(長女)、喜代子(妻)
生誕 1913年2月10日
日本 岡山県
死没 (1945-08-22) 1945年8月22日(32歳没)
日本 茨城県土浦市
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1934 - 1945
最終階級 海軍少佐
テンプレートを表示

国定 謙男(くにさだ かねお、1913年大正2年)2月10日 - 1945年昭和20年)8月22日)は、日本海軍軍人太平洋戦争敗戦を受けて、一家四人で自決した海軍少佐である。

来歴

略歴

岡山県出身。幼少期に北海道へ移り、室蘭中学4年修了で海軍兵学校入校。1932年(昭和7年)11月卒業。国定は海兵60期で、席次4番の恩賜組である。

国定は第26期飛行学生を修了した搭乗員であった。1937年(昭和12年)、海軍中尉空母龍驤」乗組であった国定は、第二次上海事変に出征し、日本国内で度々報じられる奮戦振りであった[1]岩国海軍航空隊飛行長として太平洋戦争の開戦を迎え、第12連合航空隊参謀、三重海軍航空隊教官、練習連合航空隊参謀などを歴任した。

この間に訓練を担当した第13期飛行予備学生は、特攻隊員として多くが戦死している。国定は一時、病のため軍務を離れるが、軍令部勤務となり戦備、補給を担当する第二部に属し戦備計画を担当していた[2]。日本のポツダム宣言受諾を受けて、茨城県土浦市善応寺の佐久良東雄の墓所付近で妻、長男、長女とともに自決した。

自決

終戦間際の国定は徹底抗戦論者で、和平派の海相米内光政の暗殺を謀っていた[2]。しかし決行には至らず、敗戦を迎えた1945年(昭和20年)8月15日夜、有力な抗戦論者であった大西瀧治郎を官舎に訪問している。しかし大西は国定らを前に抗戦論を述べることはなく、その夜のうちに自決した。国定らは大西の自決をまだ知らなかったが、国定はその夜のうちに同期生に自決の意思を打ち明けている[1]

自決時の国定は、軍装に金鵄勲章記章参謀飾緒を佩用した姿であった。遺書には妻が説得にもかかわらず死を希望したことが記され、子を連れて行くことに対し「愚カナル親心ヲ察シ乞フ」とあった。

出典

  1. ^ a b 『海軍おもしろ話 戦前・戦後篇』「幻の海軍士官・国定謙男少佐」
  2. ^ a b 『戦士の遺書』「国定謙男」

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「国定謙男」の関連用語

国定謙男のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



国定謙男のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの国定謙男 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS