トーキー以降
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同年11月に牧野の長男・マキノ正博による「マキノトーキー製作所」の設立に参加、脚本部に「波多謙治」の名を連ね、33歳になるころに初めてのトーキー脚本に挑んだ。ここでは『修羅八荒』のトーキーリメイク作全3篇のうち2篇も、前作から10年ぶりに手がけている。1937年(昭和12年)4月に同社は解散、西條は新興キネマ京都撮影所へ移籍する。 新興京都では「波多謙治」での執筆をつづけ、1941年(昭和16年)1月の戦時統合による大映への合併のさいにも、大映に残留した。第二次世界大戦終戦の年の1945年(昭和20年)4月、木村恵吾監督の『紅顏鼓笛隊』をもって再度フリーランスとなる。1949年(昭和24年)、大映での安田公義監督作『母恋星』をもって、「波多謙治」名での執筆は最後となった。 1951年(昭和26年)、かつて「宝塚キネマ」を興した高村正次の「宝プロダクション」で7本の脚本を「木下藤吉」名義で執筆、同名義で東映京都撮影所作品、大映京都撮影所作品に1954年(昭和29年)まで執筆した。同年からふたたび「西条照太郎」名義にもどり、東映京都を中心に1956年(昭和31年)まで脚本の執筆をつづけたが、53歳になる同年、引退した。 その後は、京都・嵯峨野に現在もある老舗湯どうふの店「竹むら」の主人として過ごした。没年は不詳である。
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