阪妻プロの再結成
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1931年(昭和6年)2月、松竹と絶縁し、閉鎖した京都太秦の撮影所を谷津遊園(現千葉県習志野市・現在はない)に移設し、野心的に仕事をこなす。新興キネマと配給提携し、吉川英治、長谷川伸その他の大衆文芸を題材とした本格的ドラマ作りに精進。共演女優に森静子、環光子、鈴木澄子、桜木梅子が次々出演。ヒット作を飛ばす。 同年、アメリカのパラマウント社のため阪妻プロとは別に「大日本自由映画プロダクション」を設立し、『落陽餓ゆ』(東隆史監督)を制作。「大日本自由映画」はこの一本のみで解散する。 1935年(昭和10年)5月、阪妻プロが新興キネマと合流。昭和6、7年ごろから日本映画はトーキー時代に移行。映画界の情勢は一変。阪妻人気は凋落。 1936年(昭和11年)12月、『怒涛一番乗』を最後に、11年続いた阪妻プロは解散する。 詳細は「阪東妻三郎プロダクション」を参照
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